ゴールデンウィーク最初で最後の日(おかしいなァ)。
上野の公園口に降り立つと、そこは連休の世界。あふれかえる人。路上の大道芸。群舞するハト。文化施設が集中している他方で、どこか垢抜けずひなびた温泉街あるいはさびれた商店街の風情をただよわせる上野をにくからず思う。人であふれかえってにぎやかなのにどこか物哀しい場所。これは単なる感慨なのだけれど、なにか日本のいびつな近代化がはしなくも目に見える形をとっているのがこの場所のように感じるのです。
東京藝術大学大学美術館に足を運ぶ。「再考 近代日本の絵画――美意識の形成と展開」が開催されている。この大規模な展覧会は2部構成で、第1部(第1章〜第4章)が東京藝術大学大学美術館、第2部(第5章〜第15章)が東京都現代美術館で開催されている。
まだ第2部までを通覧していないのでなんともいえないけれど、明治から現代までの日本美術100年の軌跡を650点の作品でたどる本展覧会は、それこそ美術史の教科書を眺めるような按配で、美術史に疎いわたしにはとても勉強になる。もちろん美術史てったっておのずと限界はある。この100年でどれだけの「美術作品」が生み出されたのか、「美術作品」の規範がどのように変化したのかもよく知らないけれど、650点がその総体にたいして微々たるものであることはわかる。
さておよそ百年の美術の歴史をどのように展覧会に構成するのか。こうした展覧会とは一種の時空間的背景のダウンサイジングによる再現であり、ある時にある所で創られた作品を一定期間一定の場所に配置することである。空間的には日本のどこかで創られてものを4000m^2の展示室の中に、時間的には約100年間に創られた無数の作品を650点程度の出品物(1年あたり5〜6点)に編集することである。この展覧会は、数量的には国内の展覧会では最大級のものになるが、それでもダウンサイジングの限界を超えるものではない。欠落と不足が存在するのだ。いうまでもなく、この問題の解決は観客に委ねられている。観客は自分の意志で、いつでも、この不足を補う旅に出ることができる。同じ作家のより良い作品を求めて山の中の美術館に足を運ぶことも、彼がその風景を描いた地点に立つことも。
難波英夫「四角い窓から――辻井喬、J.ハーバーマス、P.ブルデュー、平塚らいてう」(同展カタログ)
せめてネットの上にデータベースとしてだけでもよいから、能うかぎりの作品リストがあればよいのにな、と思う。もしそんなデータベースがあれば、これを参照することによっていわゆる美術史なるものが、どのような意志によってくくりだされたものであるかもあぶりだされ、それ自体も興味深いことだと思う。もっとも、気になる作家の作品がどこに散在しているかを追跡するのもまた、作品に接する愉しみの一部でもあるのだから、矢鱈とデータがあればいいってものでもないですけれど。
ここにない諸作品への渇望感を与えられて美術館をあとにした。
それにしても、高橋由一の「鮭」(c.1877)ほど実物より印刷物のほうが見栄えがする作品もめずらしいのではないだろうか。
展覧会の構成はこんなふう。
★第1部
・第 1章 博覧会美術
・第 2章 アカデミズムの形成
・第 3章 風景論
・第 4章 静物論
★第2部
・第 5章 画家とモデル――アカデミズムの視覚
・第 6章 理想化と大衆性
・第 7章 日常への眼差し――近代の規範
・第 8章 〈インターナショナル〉スタイルへの連動
・第 9章 〈東洋〉と〈日本〉
・第10章 戦争を描く
・第11章 〈戦後〉という時代
・第12章 リセット:1950-1960年代
・第13章 ものと観念
・第14章 日本ポップ
・第15章 絵画の世紀