久しぶりに東京ネットウエイブで「クリエイター入門」という高校生向けの講義を担当する。今日から始まった後期は全4回の予定。1回あたり1コマ90分を2コマで都合180分。
テーマは物語について。
物語とはなんだろうかという素朴な、しかし考え始めるとよく分からなくなる疑問から出発して、なぜ人間は古代からいまにいたるまで物語を手放さずにきたのだろうかという疑問まで、学生たちと議論をしながら進める。
みな、私との対話式に馴れているので、問いを投げるとあちこちから活発に意見やアイデアが飛んでくる。それを受けとって、整理して、さらに考えを進めてまた問う。そうやって共同作業をしながら考えを進めてゆく。
また、古い物語の例として『ギルガメシュ叙事詩』の日本語訳を一緒に読んでみる。なにがどう書いてあるだろうという問いを念頭に読むと、普段は読み流している文章に、実にさまざまな謎やしかけが見つかる。ちょうどいま最後の作業をしている『文学問題(F+f)+』とも重なる話だ。
原文を覗いてみたい人のために英訳つきの原典や古代シュメール文明にかんする文献なども紹介する。
(書影は筑摩書房ウェブサイトからリンク)
普段はへにゃへにゃしゃべるところ、講義や対談の席では声を張る。
ずっと立ったままホワイトボードに文字や図を書いたりしながら、うろうろ歩き回る。
思えばいつからそんなやり方をしているのか分からないけれど、どうも歩かないと考えられないことに気づいて以来、大学でも専門学校でも会社でも、うろうろ歩きながら話すようになった。
これはれっきとしたスポーツである。
大きな声で明瞭に話すのも、うろうろ歩くのも、ホワイトボードに書くのも、存外体力のいることだったりする。
それで講義の後はきまってけだるい。
夏にプールで泳いだ後の昼下がりの授業中のように。
今日は講義の後で質問に来た学生から、「先生は最近なにをしていますか」と尋ねられて、おお、そういえばわたくしは何をしているのだろうと考える。
来る日も来る日も原稿を書いたりゲームを考えたりゲラを見たりしている。あの映画を観たい遊びに行きたい寝ていたいと唱えながら、「この仕事が終わればちょっと楽になるはず」と念じながら。
こんなことではあかんのではないか。
もちろん学生は久しぶりに会ったわたくしに、気軽な挨拶のような質問をしただけなのだが、そんなことを考えて一瞬答えに詰まってしまった。
「先生、シャツのあいだからおへそが見えていましたよ」とはこれも学生からのご指摘。
見せつけているわけではないのだけれど、好んで着るシャツがくしゅっとした生地のことが多く、油断しているとそうなってしまうのだった。誰に言い訳をしているのか。
思えば専門学校で教えた10余年のあいだも、幾度となく指摘されてきたのに、ついに直らなかった。これも一種のハラスメントだろうか(チラハラ?)。誠に申し訳ない。
講義で話をしていると、いろいろなことを忘れてしまう。
まず、時間を忘れる。議論の本線を忘れる。シャツのすきまからおへそがチラリとしていることを忘れる。へんなてつきでジェスチャーしていることを忘れる。かたとき締切のことも忘れる。
今日は食事をするのも忘れていて、起きてから講義を終えて夜になるまで、コーヒーを二杯飲んだきりであることに気づいたのは20時頃のことだった。
道理で書店に寄ってもなにも手にとる気がしないわけである。
みすず書房から刊行されたはずの『完訳 天球回転論――コペルニクス天文学集成』(高橋憲一訳・解説)を、最初に見かけた書店で買うつもりでいるのだが、まだ遭遇できていない。年末から来年にかけて天文学について考える必要があり、渡りに船の完訳刊行である。
なぜわたくしはまたぞろ仕事の話をしているのか。
どうでもいいことを書きたかったのだ。
寝よう。
(書影はみすず書房のウェブサイトからリンク)