★思い出せない

成田エキスプレスでのこと。やけに大きな月が見えるな、と窓の外を眺めていると、ガラスに反射して前の席の一部が見える。女性が電子辞書を使って調べ物をしながら本を読んでいる様子。その電子辞書はディスプレイも大きくて、メモリカードをさせば辞書を追加できるタイプで、とても使いやすそうだから私も手にいれようと思っていたものだった。


窓を眺めるのをやめて、持参していた本に目を落とす。車内は銀河鉄道999なみの乗車率。


そこへ、なにやらきょろきょろした西欧人が一人、まばらに人が座る座席をのぞきこみながらはいってくる。どこかで見た男。ハンガリー生まれで、数学者で、マルチリンガルで、大道芸をやる……そうそう、手にはなにか手品の小道具みたいなものをもってそれをたえず動かして……。


男はにこやかな表情で「きーめた」という風に、私の前の電子辞書の女性の隣へこしかけた。「こんにちは。それはなにをなさってるんですか?」 おお、なんて単刀直入だけどスムース。女性は知人にでも応接するように答える。男はその電子辞書を見ながら、イタリア語はどうのこうのと語学談義をはじめ、10分ほど会話をしてから、「じゃあ、たのしんできてください」と言って、来たときと同じように去っていった。


そうだよな、彼はあれだ、ハンガリー生まれで、数学者で数学オリンピックの金メダリストでもあり、マルチリンガルで11ヶ国語ほど話せて、大道芸をやる……そうそう、手にはなにか手品の小道具みたいなものをもってそれをたえず動かして……。風体から話ぶりから話題まで、まるきりあの人みたいだったなあ。世間にはよく似た人がいるもんだなあ。あれじゃまるであの人だよあの人。あの『夜と霧』の著者みたいな名前の。あれ? 『夜と霧』の著者名も出てこない。ああっと。


成田に到着して改札を出るとさきほどの男が立っている。足元には、色とりどりのテープで大きく「ピーター・フランクル」と描いたにぎやかなトランクが。


ありがとうピーター、おかげで今夜はふつうに眠れそうだよ。『夜と霧』のほうはヴィクトールか。けっこうがんばってヒントをくれていたんだね、僕の脳よ。