★判断力

★思想の輸入

「……日本の知識人はたいへん困難な、いってみれば、困った状況のなかに追い込まれております。つまり、輸入文化、輸入思想の上にひたすら立つというのがおおかたの知識人の出発点であります。これは、残念ながら、古い仏教の伝統以来、漢文化の輸入にせよ、近くは明治のヨーロッパ文化の輸入にせよ、より強化し、より拡大してゆく一種遁れがたい伝統になっています。私はそれを『でき上がった思想の輸入』と呼んでおりますが、だいたい十くらいの思想が輸入される。すると、それに一か二を加えるのが、いわゆるわが国における思想家の実体であります。そこでは一から自分だけで出発したわけではないのでありますから、二、三、四、五というように長い苦闘を積みあげてゆくきびしい努力も暗い絶望的な苦痛も解らない。この『でき上がった思想』の上に乗りますと、いわば竹馬に乗ったように、十歩ぐらいは歩ける。つまり十年くらいはもつ。逆にいうと、この竹馬は十歩ぐらいで倒れる。つまり、十年くらいしかもたないのです。そういう十歩でつぎつぎ倒れる竹馬乗りが、残念ながらわれわれの思想の状況であり、全体としての知識人の構造なのであります」

埴谷雄高花田清輝弁証法」(奥村宏『判断力』からの孫引き)


思えばずっとそうだものね(ひとごとじゃないわけですが ^-^;)


奥村宏『判断力』(岩波新書新赤887、岩波書店、2004/04、、amazon.co.jp)は、氏の専門である経済の領域を中心に、戦後日本社会のデザインを担ってきた政治家や経営者ら、それに奉仕するメディアと御用学者たちが、いかに判断をおこたり、それゆえに責任もとらずにやってきたか(責任をとることがないから同じ過ちを繰り返すこと)を批判する一冊。


奥村さんの「無責任資本主義」や会社本位の「法人資本主義」といった従来からの指摘が的をえたものであることは、企業の現場にいるといやでもよくわかり、かえって現場で指揮をとっているつもりの経営者のほうがそのことに無自覚なんではないかしら、とも思えたりします。


どうやって判断力をとりもどすか。