★本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波新書新赤928、2005/01、amazon.co.jp)#0108
「ポストコロニアリズム」という言葉における「ポスト」とは、「過ぎ去ることなく現在に継続し行く末〔未来〕に影響する、という時間的な三重の縛り(であると同時に開かれた可能性)を示す概念」(p.v)であり、「単に時間的な「後」を示す言葉ではない。植民地主義による支配の構図を反省し、反転し、反抗するという意図がそこにはある」(p.xi、強調は引用者による)。つまり、「ポストコロニアリズムとはコロニアリズムの終わることなき検証である」(p.xiii)。
本書は全六章からなっている。
序 いま、なぜポストコロニアリズムか
第一章 一四九二年、コロニアルな夜明け
第二章 「食人種」とは誰のことか――カニバリズムの系譜
第三章 植民地主義からの脱却――フランツ・ファノンとアルジェリア
第四章 「西洋」と「東洋」――エドワード・サイードとパレスチナ
第五章 階級・女性・サバルタン――ガヤトリ・スピヴァクとベンガル
第六章 「日本」にとってポストコロニアリズムとは何か
あとがきにかえて――日本のポストコロニアルな〈責任〉
ブックガイド・映像ガイド
第一章は、コロニアリズム(植民地主義)の歴史概説。第二章では、植民地支配において「食人種(カニバル)」なる言葉が被支配者(支配者にとっての他者)の野蛮さや劣等性を示すレッテルとして機能する次第を検証。だがしかし、いったい支配者たるヨーロッパ人と被支配者たる非ヨーロッパ人とでは、はたしてどちらが「食人種」であるか?――モンテーニュ、スイフト、サドを梃子にして著者はこのように問い返す。
第三章から第五章の三つの章では、ファノン、サイード、スピヴァクがそれぞれ批判の対象とした植民地主義的な問題(アルジェリア、パレスチナ、ベンガル)の検討をつうじて、彼/彼女らの仕事に焦点を当てている。この部分は、それぞれの思想家の仕事にアクセスするためのとっかかりを得るために読んでもよいと思う。
第六章では、日本におけるポストコロニアリズムの問題を、アイヌ、沖縄、従軍慰安婦という三つの具体例をつうじて検討している。
ここで見てきた三つの例をポストコロニアリズムの契機として見直すことは、それらだけが日本を「日本」たらしめた他者的要素であったということでもなく、また「日本」という自己とそこにまつろわぬ他者との対立がつねに静的に維持されてきたことを主張するためでもない。自己が他者と共存し交錯せざるを得ない近代世界で繰り返されてきた暴力と搾取と差別と抑圧の事実を直視し、あり得たかもしれない別の世界、あり得るはずの社会を構想するための想像力を私たち自身が鍛えることの大切さを、この三例は教えてくれるのではないだろうか。
(同書、pp.210-211)
以上を通読してみてわからなかったことは、「ポストコロニアリズム」が「イズム」である所以。「ポスト/コロニアリズム」、つまり「植民地主義」という「イズム」がまずあって、それに「ポスト」という接頭辞をつけたから「ポストコロニアリズム」なのだろうか。と思っていたら、「あとがきにかえて」で、つぎの一文に出会った。
ポストコロニアリズムは新しい輸入学問でも小難しいカタカナ用語でもない。「イズム」である限り、それは理論的普遍性を目指す。しかし同時にそれは、現場での人と人との出会いに注目する。理論と現実の交錯が、過去と現在と未来を往還するポストコロニアリズムの条件なのだ。このようにポストコロニアリズムが歴史批評と現状批判の二重性を孕むとすれば、その姿勢は当然、現実の暴力と言葉や表現による支配の両方をともに対象とすべきである。
(同書、p.221、強調は引用者)
「イズム」とはそういうことだったのか。もいっぺん冒頭から読み直してみよう。