「ネフェス(呼気)」(2003)


ピナ・バウシュとヴッパタール舞踊団の来日公演は、「ネフェス(呼気)」(Nefés)


イスタンブールに触発され構想されたという130分(2部構成)の舞踊。


上半身を露わにして腰に白い布を巻いた男性が床に寝そべって「私がハマームに行ったときのことです……」と、舞台の文脈を提示する。ハマームとはトルコの浴場のこと。いま一人の男性が、寝そべった男にマッサージを施している。


こうした文脈は導入されるものの、イスタンブールの歴史・文化を表象することが目論まれているわけではない。それはまさにモチーフとして機能しているのだろう。


舞台は、それこそアストル・ピアソラからトム・ウェイツまで、それぞれに多様な楽曲(http://www.pina-bausch.de/stuecke/nefes_musik.html)を使ったソロ・ダンスの継起を中心に、寸劇風の演出、群舞を交えて展開してゆく。


ソロ・ダンスの多様性は、黒海と地中海、ヨーロッパとアジアとが出会うイスタンブールコンスタンティノープル)における文化の混交度合いや多様性を反映したものかとも思えてくるがそこまで強く意図したものかはわからない。トルコが辿った近代化・西欧化の影と伝統の相克にも見える風景がさっとあらわれるが意味をとらえようとする前に消えてゆく。


前景にあるのは、(ダンスなのだから当然といえばそれまでだが)あくまでも個人的な人間の身体とその営みである。男女の色恋や個々の人生をを思わせるダンスが群れとなることで同時に集団的な営みを想起させる手法はこの作品でも健在で、そのような人間の出会いから連綿と人間の歴史がつむがれてゆくイメージが作品全体を貫く糸となる。


否応なく眼を惹くのは、天井につるされた管から水滴が落下し、気がつけば何もなかったはずの舞台中央やや奥のほうに円い水面が生じることだ。


つねに傍らに水があること。それはもちろん水に囲まれたイスタンブールを連想させるものでもあるけれど、同時にミレトスの哲学者タレスが万有の構成要素を水と述べたという伝承からはじまって、ときには生命を育むオアシスとして、あるときは憩いの水辺として、またあるときには世界を二重化する鏡として、船のわたる海として、観る者の脳裏に水から連想される多様なイメージを喚起する。「ネフェス(呼気)」という生命力からひいては宇宙に偏在する風・気息という意味をもつ言葉であることもまたこうした連想を促している。


徐々に大きくなりゆくその水面によって形が変わる舞台。その変化に応じて、何度かの例外をのぞくとダンサーは水面の周囲を縁取りながら踊る。そのさまを眺め遣るうちに、時に弱く、時に強くほとんど瀧のように水が注がれるその円い水面が、舞台のすべてを見つめる巨大な瞳にも見えてくる。そのとき流れ落ちる水はさながら眼にさしこむ光の束のようでもある。


舞台で繰り広げられるさまざまなパフォーマンスは互いに独立していながら、この水面によってひとつにつながれているようだ。舞台が終わりに近づくにつれ、水面はすこしずつ小さくなり、ついには消え果てる。


Pina Bausch Tanztheater Wuppertal(独語)
 http://www.pina-bausch.de/


Pina Bausch Tanztheater Wuppertal > Nefés(独語)
 http://www.pina-bausch.de/stuecke/nefes.html