ジャムを煮詰めるように



ここ2年ばかり、漱石先生の『文学論』を繰り返し読んでいる。同書は、「文学とはなにか」というモンダイに真正面から取り組んで、いってみれば「文学の条件」を普遍的に把握してみようという試みである。


この本は滅法面白い。つまりは、いろいろなことを考えさせられる本で、私はできれば多くの人が読んでみたほうがよい本の一冊ではないかと睨んでいる。


ただ、そうはいっても全くもって読みやすい本ではない。なにせ、冒頭からしてこんな具合なのだ。

凡そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。


1ページ目から、とりつく島もないと感じる読者がいたとしても不思議ではない。


しかし、繰り返しになるけれども、この本はできれば一度は吟味してみたほうがよいものではないかと思っている。


なぜかというと、「文学論」と題して、たしかに文学作品について考察しているのだが、本書は「文学」論であると同時に、「文」についての学と論でもあるからだ。「文」、つまり、言葉を使ってものを書くとはどういうことか、それを読むとはどういうことかということが、この本の根底にある。それも人が普通タイトルから想像するような文学論ではない。


漱石先生は、文学について考えるには、文学論ばかり見ていても埒が明かない、それはあたかも「血で血を洗うようなものだ」というちょっと凄い譬えで説明している。


ではどうするかといえば、心理学(現在なら認知科学、神経科学も含む)や社会学(現在で言う社会学とぴったり重なるわけではないが、文学に価値を与える人間の集団とその時間的変化というぐらいの意味)、そして自然科学など、文学以外の観点からも、文学を眺めてみようというわけである。


その試みは、書かれてから(もともとは帝国大学で行われた講義であるが)100年以上を閲した現在読んでみても、誠に刺激的だし、随所で提示される疑問や仮説は、読者にもものを考えさせる力を湛えているように思う。


そこで、どうしたらこの本の面白さを伝えられるだろうかということを、ここしばらく考えているのだった。


ある時は、冒頭から精読しつつ、そこに書かれていることを説明したり、漱石先生以後の文学作品の例などを使って検討するということをしてみた。これはこれで理解が深まる。ただ、そうして書かれた文章自体が、『文学論』と同じかそれ以上に複雑なものになってしまうという本末転倒気味の問題が生じてしまった。


そこで目下は、「もし、細かい議論や引用される厖大な例をそぎ落としたら、どんな骨格が残るだろうか」という観点から、『文学論』を一種のアフォリズム集のようなものとして再編成しつつ読んでいるところ。ちょうどみずみずしいイチゴを煮詰めてジャムをこしらえるような感じで。