先日、2017年03月03日にゲンロンカフェで行われた対談、渡部直己×大澤聡「批評という快楽――『日本批評大全』徹底解剖」を聴きに行った。
(以下はtwitterへの投稿をまとめたものです)
要点だけノートしようと思っていたら、14ページを使っていた(4時間近くもあれば、そらそうか!)。
渡部さんの話にあった、教師の立場で、学生に対して物事を単に易しくすることは、例えば「ドイツ語を習得できなかった」「あの本を読めなかった」という「なにかができなかった記憶」を奪うことになる、という指摘が印象に残った。
自分が何かを「できない」という感覚は、物事を習得したり学びたい人にとっては、たいそう重要だと思う。一方では、「できる」人への敬意(評価)にもつながるし、他方では「だからトレーニングしよう」という動機にもなる。もちろん単に挫折の記憶だけが残る場合もあろうけれど。
単純にいっても、「あれはなんだろう?」と捉え難い思いがあればこそ、物事を探究したくなりもする。ポイントは、分からないことを楽しめるかどうか。私もよく学生にものを教える立場になる場合は、分からないからこそおもしろがろうぜとお伝えします。
それから、お二人の間で繰り返し議論されたことの一つに、なんのために批評をするのかという問いがあった。批評は自分のためではなく、人のためにやるものだ、という話が昨晩の対談の基調を成していた。
仮に批評とは、取り上げる対象について、必ずしも見えやすくはない意味と価値を指し示すことだとすれば、それは対象を輝かせるための行いでもある。
そうした批評に触れた誰かが「あ、これは面白そう」「いま私に必要かもしれない」と感じて、その批評の対象に向かうとしたら、これをもって批評は人の役に立っているというわけだ。その批評に出会わなかった時とはちょっと違う方向へ、その人の人生を変えることにもなる。
渡部さんが、何度か「あいつが読んでるなら、オレは絶対読むものかと思った」とか、「あの人のおかげであの本を読むことができた」と述べていたのも印象に残る。私の場合、前者はないけれど、後者の恩恵でいままで多くのものに出会うことができた。
例えば、「オックスフォード英語辞典」(OED)に興味を持ち、後に使うようになったのは、学生の頃、大江健三郎と高山宏がOEDを使ったり面白がっている姿に本を通じて何度も触れたからだった。博物学は南方熊楠と荒俣宏から、数学は森毅から、というふうに。とこれは余談。
大澤聡さんの例によって、どれだけものを読み知っているのかという緻密な調査・検討・整理に基づく知識の提供と、会場を楽しませる当意即妙の話術で、渡部直己さんからたくさんのことを引き出しておられたのも驚倒したし、実に楽しかった。三木清第2弾も楽しみ。できれば戸坂も。
もちろん、対談のテーマだった『日本批評大全』(河出書房新社)の設計についての話や読み方にかんするヒントも多々あり、これも有益でした。病み上がりで大丈夫かなと思いつつ拝聴しましたが、たくさんの得たいの知れないエネルギーを分けていただきました。ありがとうございます。
追記:大澤聡さんと渡部直己さんの対談で何度か話題に出た本の一つに三島由紀夫の『文化防衛論』があります。この本は、2006年にちくま文庫に入っていますが、それについては実はちょっとお役に立ちました。
ある日、吉川浩満くんと共に筑摩書房のYさんと打ち合わせをしていた折りのこと。私が持ち歩いて読んでいた『文化防衛論』(新潮社、1969)の話をしたところ、Yさんが「それだ」というので、そのまま本を持ってゆき、文庫に入れたのでした。と、以上はただの思い出話でした。
おまけ:
今日のゲンロンカフェの予習は、こんな感じでいいかな。 pic.twitter.com/vYjoCAvKJv
— 山本貴光 (@yakumoizuru) 2017年3月3日
一言でいうと、こんな気分よ。 pic.twitter.com/Jgu5EcvJwJ
— 山本貴光 (@yakumoizuru) 2017年3月3日