現実と虚構はどのように区別されるのか

ずっと気になっていることのひとつに、私たちは、どうやって現実と虚構を区別しているのか(していないのか)、というモンダイがある。

そんなの区別できるに決まっておろう、とうとうリアルとヴァーチャルの区別もつかなくなったのか、と思われるかもしれない。

とはいえ、実際に記憶の研究を見ていると、かつて経験したことがないはずの出来事を、第三者からの示唆によって、そういう経験をしたと思い込んだりするという実験などもあるようだ。

私たちの記憶は存外柔軟な面もあるといおうか、事実とつくり話を簡単に取り違えられるといおうか。

このモンダイは、一方では個人の脳における記憶や知識のあり方はどうなっているのかという神経科学上の事実の方面から詰めていけることであり、他方では歴史と物語の関係やいかにという古くていつまでも新しい過去の遇し方のモンダイにも深く関わっている。

また、『吾輩は猫である』の吾輩の言い分ではないけれど、私たちは24時間の出来事を(24時間かけて)ありのままに記憶したり思い出したりできるわけではない。そうである以上は、知覚したことや経験したことは、必ず圧縮や省略などの処理を経て、つまりなんらかの加工を施されて記憶に収まる道理である。このとき、記憶された過去の出来事は、どこまで事実といえるのか、どこからが物語のようなものといえるのか。

話を冒頭の問いに戻せば、私たちは自分が現実に経験した出来事と、小説で読んだ出来事とを、どのように区別しているのか。

そんなことを考えているところに、facebookで三宅陽一郎さんが宮下保司研究室のウェブサイトへのリンクを投稿しているのを見かけた。

リンク先は、同研究室のウェブサイトに掲載されている「認知記憶の大脳メカニズム――イメージと創造力の起源」というページ。実際に眼でなにかを見る場合と、想像(心の眼)で見る場合とは、なにがどうちがうのか、というモンダイが俎上に載せられている。

 

想像力の起源