問題学について

 ここのところ、ゲームデザインの講義などで、「ゲームとは、モンダイを提供するものである」という説明の仕方をしています。

 ゲームは、必ずなんらかの解決すべきモンダイをプレイヤーに与えます。そのモンダイは、普通、解決できることが保証されており、また、プレイヤーには解決手段も一緒に手渡されます。

 つまり、ゲームのプレイヤーとは、誰から頼まれたわけでもないのに、ゲームが提示するモンダイに取り組み、解決を目指す人というわけです。

 先日のイシスフェスタで、「知のゲームを編集する夜学」という講座を担当しました。なんらかの意味で「知(science)」と言えるものをゲームに仕立ててみようという趣向です*1

 その講座を準備するなかで考えたのは、古来、学問(sciences)というものは、未知の謎、モンダイを発見し、その解明に取り組む営みであり、モンダイと付き合うという点では、ゲームと通じる面があるのではないか、ということでした。

 もちろん、これはとても大雑把な類比に過ぎません。しかし、モンダイという観点から、これまで人間がやってきたいろいろなことを眺めなおすと、学問にせよ、ゲームにせよ、その他の営みにせよ、なにか人間の本性を考えるうえで面白い性質が見えて来るのではないか、という気がしています。

 私はこれを、自分で勝手に「問題学(problematology)」などと呼んでおります。将来機会が巡ってくることがあれば、「問題学の文化誌」ということについて眺め楽しんでみたいと念じています。目下、ここ数年、「百学連環」というテーマで、学術五千年史について考えていますが、この学術史もまた、問題学の一部ということになりそうです。

 

問題がモンダイなのだ (ちくまプリマー新書)

問題がモンダイなのだ (ちくまプリマー新書)

 

 

*1:それにしてもイシス編集学校の書棚空間はいいなァ。