★オランダ

武智幸徳のサッカー評論(エッセイ?)を集めた『サッカーという至福』(日経ビジネス人文庫日本経済新聞社、2002/04)を読んでいたら、こんなたとえがあった。

「ドイツのサッカーはOSが古くなって、職人的な選手(ソフト)がうまく動かないパソコンのようだと述べた。オランダが不気味なのは試合中に『司令塔』だの『ゲームメーカー』に相当するOSを探してもどこにも見当たらないことである。OSを必要としないソフト、ソフト自身がだれに指図されるでもなく勝手に動き出し、ソフト同士が相互に連携を取りながら仕事を進めていく感じ。『使う側』と『使われる側』が固定化されず、だからフラットというか、チームにヒエラルキーの匂いも希薄なのである。それが裏目に出て無政府状態になることもあるのだが」

このたとえの妙味は、OSやソフトについて知らなさすぎもせず/知りすぎもしない、あいまいなイメージを抱いている人にちょうどおもしろく感じられるように書かれている点にあると思う。


読み手がOSについてよく知らないと意味がわからず、よく知っていると著者が想定したたとえの範囲をこえた詳しさでたとえを適用されてしまいおかしなことになりかねなかったりして(ソフト自身がだれに指図されるでもなく勝手に動くこととOSの有無はとりあえず関係がない、など)。


もしこのたとえに問題があるとすればそれは、OSとそれ以外のソフト(OSもソフトなので)の関係を、このたとえから「理解」してしまう読者がいるかもしれないこと。「OSとソフトって、サッカーで言ったらさ、司令塔とほかの選手みたいなもんだろ?」だなンて。


それはともかく――

「オランダがボールの争奪を1対1の尋常な立ち合いから、1人の武芸者に3人同時に切りかかる暗殺剣に変えたころ(以下略)」

このたとえには声を出して笑ってしまった(『少林サッカー』かよ)。


よもやこの愉快なたとえを読んで、暗殺剣のなんたるかをサッカーから理解(誤解)する御仁はないだろう。――と考えると、さきに述べたOSのたとえもそんな心配は無用もいいところだろうか。なァんだ。


たとえといえば、押井守もおもしろい人で、アニメ製作の話をやたらと戦争にたとえて語ります。彼の場合はむしろ戦争の話をしたくてアニメを俎上にのぼせているふしもうかがえますのでそれをたとえと受け取ってよいのかわかりませんけれど。たとえば近作『イノセンス創作ノート――人形・建築・身体の旅+対談』(徳間書店、2004/03)をごらんあれ。