ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』


★ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』(大浦康介訳、筑摩書房、2008/11/25、ISBN:4480837167
 Pierre Bayard, Comment parler des livres que l'on n'a pas lus? (Les Editions de Minuit, 2007/01, ISBN:2707319821


なんとも人を食った書名だ。しかし、1ページでも読んでみればわかるのだけれど、これは至極まっとうな読書論である。


本書で著者バイヤールが問題にするのは、「本を読む(読んだ)とはいったいぜんたいどういうことなのか?」ということだ。管見によると、いかに読むかといった関心から書かれた読書論はたくさんあるが、読むということそのものをこんなふうに俎上に乗せた本はあまり多くない。


たとえば、或る本を読み終えて、それについて誰かに語るとき、ひとはいったいなにについて語っているのか。もちろん、読んだ本について語っているに決まっているじゃないか。


でもほんとうにそうだろうか。ここで少しばかり精確に考えてみよう。


私が或る本を「読み終えて」、その本について語るとき、私が語っているのは、その本を読んだ私の記憶に残った断片の集積のようなものだ。要するに記憶のなかにあるその本について語っている。


加えて言えば、記憶のなかに残ったその書物は、読まれた書物そのものとはまるで異なるなにかだ。つまり、書物を読んだ私が、ページのうちに読みとり、解釈し、形を変えながら記憶に残ったものに他ならない。


厄介なことに、私たちが或る書物を読むとき、そこに印刷された文字を脳にダウンロードするように読むわけではない。私たちは常に、読むはしから忘れ、いま目にしている箇所とその読書の経験に先立って自分の脳裏に集積された知のネットワークとでも言うようなものとをすり合わせながら読んでいる。


だから、「同じ」一冊の書物でも、読むつど「異なる」書物として読まれることになる。なぜなら、自分の経験や記憶が変化するからだ。


そのもっとも端的な例は、読めない外国語で書かれた書物だろう。たとえば、アラビア語をまるで介さない読者が、アラビア語で書かれた書物を手にすれば、その書物を読むことはできない。しかし、その後アラビア語を学び、アラビア語を母語に対応させることができるようになると、以前はなにも読みとれなかった書物が、にわかにたとえばイブン・ハルドゥーンの『歴史序説』として読まれるようになる。


母語で書かれた書物でも事情はたいして変わらない。たとえば、明治期に書かれた書物に不慣れな読者が、いきなり西周や津田真道の著作に向かってもそこに書かれている明治の日本語を読むのは難しい。


いやいや、それは言語や時代が違うのだから当然ではないかと思うかもしれない。では、同時代の書物ならどうかといえば、選ぶところはない。たとえば、不案内な領域の専門書について考えてみてもよい。


いまは読めない書物のほうから述べたが、読める場合も同様である。たとえば、或る小説を、ひたすら物語の流れにのって楽しもうと思って読む場合と、その作家の形容詞の使い方に特徴がないかどうかを調べようと思って読むのとでは、読書体験はまったく異なっている。


つまり、読者の脳裏にある知の総体や、そのとき抱えている問題意識の所在によって、手にとった書物から読みとれるものは変化するのである(このことは速読にも言えると思う。どれだけ物理的な速読の技術を身につけても、馴染みの薄い分野や言語の書物を速読で理解することはできない)。


こう考えてみると、はたして書物を読むとか、読み終えるということがどういうことなのかが、とたんにわからなくなってくる。物理的に最初のページから最後のページまで目を通したら、読み終えたことになるのかと言えば、そうも言えないだろう。


だとすれば、読んだはずなのになにも覚えておらず、したがってその内容についてなにも語れない書物と、きちんと読みとおしたことがないにもかかわらず、他人の評判やどこかで耳にした内容をもとにして或る書物について語れる場合とでは、いったいどちらがその書物から多くを得ていると言えるだろうか。バイヤールは、書物を読まずに、しかしその書物について見事に語られている例をいくつも挙げながら、そう問いかけている。


変な話だけれど、書評を書こうというときは、対象とする書物との距離がとれないとうまくいかない。「これについては著者は正確にはどう述べていたっけ……」などと本の中を覗いているうちは、限られた文字数のなかでその本について述べることは難しい。


なぜなら、そのように書物との距離が近すぎる状態では、書物のディテールにとらわれてしまうからだ。さりとて、書物を要約しようと思っても限界がある。「(要約のように)そんなに少ない文字で書けるなら、作家だって最初からそうしているよ」(大意)と言ったのは太宰治だっただろうか。


畢竟自分の記憶の中に生成されたその書物について述べることになる。ときに同じ書物を何度も読み、周到に細かな読書メモをつくることもあるけれど、それにしても結局のところ、書物そのものではなく、同書に触発されて記憶の中にできた「内なる書物」に依ることに変わりはない。


バイヤールの書物が、未読の分類から始まって、書物について他人に語らねばならない状況の分析を通り、最後に「自分自身について語る」という話で終わるのもむべなるかな。上記したように、ひとが語るのは書物そのものについてではなく、その書物から己が作り上げた別の書物(記憶)なのだから。それこそ小林秀雄の言い分ではないけれど、対象をだしにして己を語るということになる次第。



なんだそんなことなら簡単だ。と早合点してはいけない。たしかにバイヤールは、学校で叩き込まれた理想の読書、つまり書物を読みとおし、著者がいわんとしたことをくみ取るというスタイルの読書(国語の試験でも、文章を読んで著者の言いたいことを正確に答えさせられたりする)を脱して、たとえ読んでいない本についてであれ臆することなく語ろうではないか。むしろそれこそが創造的でさえあるのだから、と称揚する。


しかし、それこそ本書を通読するとわかることだが、読まずに語るためには、当該書物や作家について、あるいは語彙や自然や社会にかんする背景的知識など、事前にもっている知識の総体がものを言う。


譬えて言うなら、1000冊の恋愛小説を読んだ人にとって、1001冊目に読む恋愛小説の内容は、おそらく読む前からカヴァーの言葉や登場人物紹介といった断片的な情報からおおよそ検討がついてしまうだろう。それは言うまでもなく、1001冊目の恋愛小説を読むに先立って1000冊の恋愛小説を読んでいるからこそ可能な芸当である。


つまり、『読んでいない本について堂々と語る方法』とは、それなりの知や経験を脳裏に記憶として蔵しているからこそ可能になるという点を見落とすと、本について語っているつもりが、単に己の無知をさらけだしただけということになりかねない。


とはいえ、或る本を読んだということがどういうことなのかが不明である以上、読んだか読んでいないかということを気にするのではなく、たとえ「読んでいない」としてもそれについて創造的に語ることのほうが意義あることではないかというバイヤールの提起には説得力がある。

しかし、読んでいない本について語ることが正真正銘の創造活動であり、そこでは他の諸芸術の場合と同じレベルの対応が要求されるということは明らかである。そのことを納得するためには、そこで動員されるさまざまな能力、つまり作品に潜在する諸々の可能性に耳を傾けたり、作品が置かれる新たなコンテクストを分析したり、他人とその反応に注意を払ったり、さらには人の心をとらえる物語を語ったりする能力のすべてに思いを馳せれば十分だろう。

(同書、p.218)


読んでいない本を鏡にして己を語ることはカンタンだとしても、上記のように語ることはけして易しいことではない。


本書は、書名といい目次といい、いかにもハウトゥ本のような体裁をとっているため、釣られて読む読者も少なくないと思われる。その結果、「この本を読んでも、書名のようなことが実践できるようにはなりません。注意してください。★は一つです」だなんてAmazon.co.jpのレヴューに書かれてしまったりするのだろうか、とそれこそ余計な心配をしてしまうのであった。


⇒筑摩書房 > ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』
 http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480837165/


⇒Les Editions de Minuit > Pierre Bayard(仏語)
 http://www.leseditionsdeminuit.com/f/index.php?sp=livAut&auteur_id=1480
 原書の版元ミニュイ社のサイトにある、バイヤール紹介ページ。


読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)