余白学事始


書物史の一角に、人がどのように書物を使ったかを研究する領域がある。2007年の暮に刊行された ウィリアム・シャーマン(William H. Sherman)の新著Used Books: Marking Readers in Renaissance England(University of Pennsylvania Press, 2008, ISBN:081224043X)は、そうした研究成果のひとつ。


書名から窺われるように、本書はルネサンス期イングランドにおける書物の読まれ方、使われ方をテーマにしている。


といっても、すぐに疑問がわいてくる。一体全体、すでにこの世にいない人の本の使い方をどうやって調べるというのか。「では、いまからちょっといつもそうするように本を読んでみてください」と、目の前で実演してもらってそれを観察するというわけにもいかない。


どうするのか。と思って読んでゆくと、過去の読者について知るための手がかりは、かれらが読んだ本にあるという。そう、たとえば、ページの余白に。


シャーマンは、当時の読者たちが蔵書の余白に書き込んだ文字や絵、いわゆるマルジナリア(marginalia)に着目する。1475年から1640年に刊行された7500冊以上の書物(カリフォルニア・サンマリノにあるハンティントン図書館のSTCコレクション所蔵)を渉猟して、読書の痕跡を求めたという。そのマルジナリア(余白への書き込み)の写真が、本書の随所に掲載されているのだが、これがまたおもしろい。


行に下線を引く、欄外にメモをとるのは私たちもすることだが、なかに人差し指をにゅっと伸ばした手が描かれていることがある。シャーマンはこれをmaniculeと呼ぶ。小さな手を意味するラテン語のmaniculaから派生した語だ。たとえば、ここに掲載された写本の図像をご覧あれ。


要するに、「ここ、注目ね」という意味らしいのだが、現代のわたしたちの目から見ると、この手を描くのも結構な手間のはず。だが、この手間はかの読者たちにとってはかけるに値するものだった。


いまでは書物をそんなふうに読むケースはぐっと少なくなっていると思われるが、西欧の書物文化においては、ある時期まで書物とは、それを読み、記憶するためのツールでもあった。すばらしい言葉にであったなら、それを脳裏に刻み込むという姿勢で書物は読まれていた。「テクストのぶどう畑」(イヴァン・イリイチ)からよく熟れた果実を収穫するように。



そのとき、単に記号としての文字列を記憶するのではなく、その言葉が書かれたページの様子、文字の色や余白に施された図、そしてまさに自らが手間をかけて描きいれた指差しの図が大きな手がかりとなる。いや、ぜひともそうした要素を総動員してでも記憶せよ、とサン=ヴィクトルのフーゴーなどは教えている(「しるしに関わる三つの大きな条件について」/メアリー・カラザースのすばらしい書物『記憶術と書物――中世ヨーロッパの情報文化』(別宮貞徳監訳、工作舎、1997、ISBN:4875022883)の付録として邦訳されている)。


Used Booksで紹介されている書物の使用例でもうひとつ印象深いのは、サー・ジュリアス・シーザー(Sir Julius Caesar)という名の法律家の蔵書への書きいれ。この人物、John Foxe, Pandectae locorum communium(1572)という書物の索引にあきたらず、自分で682個もの索引語を、索引ページの余白に「増補」している。複写されたページをよく見てみると、印刷された索引(つまり著者か編集者が作成した索引)を塗りつぶしている箇所や、ページを訂正している箇所も散見される。また、シーザー氏は同じ書物の白いページを利用して、びっしりとさまざまな書物からの引用や覚書などを書きつけている。


書物を使い倒すとはこういうことなのだということを体現したようなページを眺めながら、シーザー氏が同書に向かい合い、ひもとき、少しずつ書きいれを施していった時の積み重ねに思いが至る。書物は、読者の一筆ごとに印刷された状態から固有の書物へと変化する。


シャーマンによれば、17世紀のイングランドでは、学校で書物に書き込みをする方法も教えていたそうだ。そういえば、自分は学校で書物の使い方を教わったかしら、と思うに記憶がない。文章の意味を読み取る(テストで正解を得るための)読み方は教えられたように思うけれど、書物の読み方はどうも学校の外で試行錯誤をしながら、いろいろな人の体験談(さまざまな読書本など)を参考に自分に合ったスタイルをつくってきたというのが実情だろうか。


余所の国の異なる時代の話だが、能動的な読者たちが残した痕跡に触れるにつけても、書物の使い方について再考を迫られる一冊である。


シャーマンには、ジョン・ディー(John Dee, 1528-1608/09)の蔵書を研究したJohn Dee: The Politics of Reading and Writing in the English Renaissance(University of Massachusetts Press, 1995; 1997, ISBN:1558490701)などの著作もある。


⇒The University of York > William Sherman(英語)
 http://www.york.ac.uk/depts/engl/staff/academic/sherman.htm
 ヨーク大学サイトにある著者の紹介ページ。


⇒Center for Editing Lives and Letters > TOWARD A HISTORY OF THE MANICULE(英語)【PDF】
 http://www.livesandletters.ac.uk/papers/FOR_2005_04_001.pdf
 シャーマンによる論文「Toward a history of the manicule」


⇒The Penn Press > Material Texts(英語)
 http://www.upenn.edu/pennpress/series/MT.html
 本書を含む叢書「Material Texts」の既刊リスト。