円城塔さんの翻訳による『これで駄目なら』(飛鳥新社)を読んで、久しぶりにカート・ヴォネガットの小説を読みたくなった。
率直にいえば、私は初めて読んだときからこの方、ヴォネガットが書いていることの何割かについては、その面白さがわからずにいる。たとえば「きっと、ここ、笑えることを言っているんだろうな」と思いながら、笑いがこみあげてはこない感じといおうか。(似たような感覚を、マーク・トゥエインの小説に抱くことがある)
そういえば、『これで駄目なら』の中で、ヴォネガットはこんなことを語っている(同書は、ヴォネガットが大学などの卒業式で話したスピーチ集なのだ)。
ジョークとはどういう風に作用するのか? よくできたジョークはまず、人を考え込ませる。わたしたちはそういう真面目な動物なのだ。
(略)
ジョークの第二段階は、君たちの考えが無駄で、頭をしぼってひねり出した答えが的外れだって示すところだ。知性を試されているわけじゃなかったんだとはっきりしてほっとする。嬉しくなって笑い出すわけだ。
(『これで駄目なら』、円城塔訳、飛鳥新社、p.24)
ひょっとしたら、私はヴォネガットのジョークをちゃんと考え込んでいないだけなんじゃないかという気がしてきた……。
気を取り直して続けると、でも、だからつまらないというわけではない。その、わからない部分も含めて楽しく、気がかりな作家であり続けている(なにかと長くつきあうには、適度な分からなさが大事だと思う)。
手始めに『タイタンの妖女』(浅倉久志訳、ハヤカワ文庫SF262、1977)を何年ぶりかで読んだ。原書は The Sirens of Titan (1959)。
親から譲られた財産で遊び暮らす下品を絵に描いたような資本家の男が、ある宇宙規模の出来事に巻き込まれて挫折と栄光のあいだを往復する、そんな物語だ。複数の時空間に存在する男、異星人と、地球人を相対化するSFの道具立てにも事欠かない。
こんな言い方をすると、かえってヴォネガットの持ち味を殺しかねないけれど、資本主義に対する皮肉(「批判」と書こうと思ったけれど、「皮肉」のほうがしっくりくる)、軍事や宗教に対する皮肉、要するにいつまで経っても諍いを止めない人間たちにたいする皮肉が、込み入った筋書きによって描き出される(ただし、ヴォネガットは、自分も含め、そんな具合におバカな人間を愛してもいる様子が筆致から窺える)。
次々と展開する人間の悲喜劇に夢中になっているうちに、一抹の虚しさとも希望ともつかない気分が胸中でないまぜになる。ああ、この感じ、この感じ、中高生の時分、暇に飽かせてSFやファンタジー小説をむさぼり読んだ日々に去来したこの感じ。
加えて、かつては今以上にぼんやりしていたこともあって気づかなかったけれど、フィクションを読んでいるはずなのに、こっちがむずむずしてくるような諷刺の数々。その見事さ。今回は、ヴォネガット読みながら、そんなことにも目を向けてみようと思っている。お次は『スローターハウス5』を読むつもり。
- 作者: カート・ヴォネガット・ジュニア,和田誠,浅倉久志
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2009/02/25
- メディア: 文庫
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