ものを書き始めるときの覚束なさについて

それなりに文章を書いてきているのだけれど、いまでも新たにものを書き始めるときには、毎回「どうやって書いたらいいのだろうか。というか、完成させられるのだろうか……」と、覚束ない気分になる。なにか毎回、未開の場所に足を踏み入れるような気分といったらよいだろうか。

とはいえ、そうも言っていられないので、思い浮かぶことをメモにとり、それを眺めたり、連想したものを見直したり、散歩したり、お皿を洗ったりしているうちに、書くことが輪郭をとってくる。

喩えるなら、頭のなかに小さな磁石のようなものを放り込んでしばらく過ごすような感じ。その状態で、いろいろな活動をしたり、ほうぼうへ出かけたりしているうちに、その磁石に反応するものが、そのつど引き寄せられてきて、やがて磁石のまわりに塊ができてくる。

その塊を眺め直して、今回はなくてもよさそうと思うものを外し、ここになにかがあるといいなと思うところに、ジグソーパズルのピースを探る感じで「これはどうかな」と当ててみたりする。

こういう塊ができて、それをあれこれ触ってみるためには、それなりの時間を要する。つくっては眺め、眺めてはつくる。

そんなわけで、これから新たになにかを書いてみようという場合、話がどこへ転がるかは自分でもよく分からないことが多い。「たぶんあの辺りに着地しそう」と見当をつけて進むこともあるものの、たいていは出発時には予想していなかったような場所に辿り着く。

それは、私がものを分かっていないからかもしれないけれど、ゲームで遊ぶときのように、試行錯誤を繰り返しながら進んでゆく過程こそが肝心だと思っているからかもしれない。つまり、やってみるまで分からないと思っているからかもしれない。