リオタール『聞こえない部屋――マルローの美学』


ジャン=フランソワ・リオタール『聞こえない部屋――マルローの美学』(北山研二訳、叢書言語の政治13、水声社、2003/12)

エクリチュール行為あるいは芸術行為はいかなる声も自身の後ろ盾にしないし、いかなる終わりも目指さない。至高であり、法も他者も考慮にいれないのである。作品『たるもの』は。悪とぐるになる文学だ、すなわちバタイユは悪と文学との共謀を主張する。声への、計画への不服従の実践であり、神と『人間』の死が残す無と釣り合わせられる唯一のやり方である『内的体験』は一瞬黒い虚空の陶酔のなかに主体を遺棄するのである。

書くことは関係におくことなのである。

詩法のもっとも基本的なことは、自己が、聴取可能なものの手前=向こうで聴取し、自己にとって感知不可能なものを感知できるようにする規律を自分に課すことである。

作品とは夜の偶然に投げられた賽子一擲なのである。作品は物語=歴史という虚無を放棄しないで、ありそうもない《持ち札》を無に賭ける。《持ち札》は、盲目的な偶然によっては、存在するものとしていまだに構成されてこなかったものなのだ。作品とは『何ものも意味せず』、作品を構成する諸要素の特異で意外な配置のことなのである。ここでいう諸要素とは、文学では単語、絵画では色と形のことである。作品は、物語=歴史にせよ、出来事にせよ、知覚される現実にせよ、作品以前にあるようないかなる指示対象とも関係がない。それは、その『著者』の主観性を少しも表現しない。表象代理もないし、表現もない。しかも、象徴体系もない。すなわち作品は予め存在する『観念』を意味しない。意味作用もないし、称讃する振舞いもない。

作品は慣習から、傾向から、鋳込みから自らを引き離し、自己から剥ぎ取ろうとむきになる意識的無意識的な作業によって獲得される。芸術にあっては、人間的なものは、ときとしてそれ自身に無理強いするような非人間的なものに向かって努力することで自身の意思を曲げてしまうのである。

それでもエクリチュールがやはりやらなければならないのは、どんな手段を用いて前進しようとも、ただちに言説によって省略された残余の部分の現前、すなわち言説が縫合する無の現前をほのめかすことである。無為は作品の死をもたらさないし(逆に、無為アヴァンギャルドを増殖するのが見られるほどだ)、諸々の手順の発明に明晰を要求する。