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世の中には驚くべき多読家というものがいて、同じ1日24時間を過ごしているのに、いったいいつの間にそれほどの書物を読んでいるのかと舌を巻くことがある。よく知られた名前で言えば、松岡正剛氏、立花隆氏、福田和也氏などだ。



たとえば、立花氏の『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』文藝春秋社、2001/04; 文春文庫、文藝春秋社、2003/05、ISBN:4167330156や、福田氏の『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』PHP研究所、2001/06; PHP文庫PHP研究所、2004/07、ISBN:4569661874といった著作の書名にあらわれる「大量読書術」「速読術」や「ひと月百冊」といった言葉は、そうした彼らの読書生活のすさまじさを物語っている*1


読書量を増やすということを単純に考えると、それは限られた持ち時間のなかでどれだけ効率をあげるかという問題である。当然のことながら、もし単位時間あたりの読書量が増えれば、それだけ多くの書物を読むことができる。そういう読書法を身につけたいと思う人が実際のところ、どれくらいいるのかわからないのだが、書店で書物を入手したときなどに袋にはいってくる速読術講座のチラシや、広告などを見ていると、これが商売として成立するほどには関心を持つ人があるのかもしらんと想像されもする。


いつだったか、そうした速読術講座の会社から営業の電話がかかってきたことがある。そこで日頃、速読術についてもっている疑問をぶつけてみた。


「いまの自分にとって自然な速度でも読み進むのが難しい書物でも、その速読法は適用できるのでしょうか?」 電話の向こうの男性は、あれこれ述べたあとで、「もちろんできます」という意味のことを言った。だが、ゆっくり読んでも理解できない文章を人は速読できるものだろうか。


逆に、自分が習熟した分野の書類や文書なら、さほど苦労をせずとも、持ち時間のなかでポイントを取り出すといった読み方をすることができるだろうし、繰返し愛読している書物であればまた自在に読むことができるかもしれない。


読書をするということには、読み手である自分の理解の限界、わかることとわからないことの境界を測定するような側面がある。一冊の本を読むなかで、そのときの自分にとって理解できる(と思えた)箇所と理解できなかった箇所の陰影ができてゆく。


速読法の本や上記した営業担当者の話を聞いていて思うのは、速読とは自分が理解できることを要領よく拾い上げる本の読み方なのではないかということだ。もちろん、そのような読み方が役立つ場合もあれば、役立たない場合もある。


本を読むということについて問題があるとすれば、むしろそれは本の読み方というものをどうやって身につけるか(自分で改訂し続けるか)ということかもしれない。自分のことを振り返ると、学校で本の読み方を教えられた記憶がない。もちろん、国語の時間に朗読をするとか、文章の意味を考えるといったことはあったにしても、それは読書の方法を教えるというものではなかったように思う。実際には学校の外で興味の赴くまま書物を読んでいったわけだが、そのときに読む書物は、学校で読む教科書とは意識のうえでまったくつながっていなかったような気がしている(本当はどこかでつながっているはずだが)。そこである時期から他の人はどのように読書をしているのかということが気になり、いろいろな著者による読書法の書物を読んでみた。それこそ明治の昔から現代にいたるまで、時代ごとにその時代を反映した読書術・読書論の書物があって、速読の効能を説く書物もあれば、書物からなにをどのように読み取るかという点に焦点を絞った本もある。そういうものを参考にしながら試行錯誤を重ねて、本を読むスタイルが定まっていった。



私の読書スタイルはどちらでもいいことだが、これまでに意識や実践のうえで多くを教えられた読書論として、呉智英『読書家の新技術』朝日文庫朝日出版社、1987/10、ISBN:4022604697と、M.J.アドラー+C.V.ドーレン『本を読む本』外山滋比古+槇未知子訳、日本ブリタニカ株式会社、1978/06; 講談社学術文庫1299、講談社、1997/10、ISBN:4061592998)を挙げておきたい。後者はMortimer J. Adler + Charles Van Doren, How to Read a Book(1940; Touchstone Books, 1972/08, ISBN:0671212095)の邦訳で、一部が割愛されている。


前者は、批判的に読むという態度について、後者は、速く読むことから分析的にじっくり読むことまで、さまざまなレヴェルの本の読み方について、あるいは批評の仕方(やそのエチケット)まで教えてくれるテキストで、発行から時間が経ってはいるものの、今でも再読に値する読書法の書物だと思う。



ところで、以上のようなよしなしごとが思い浮かんだのは、平野啓一郎氏の新著『本の読み方——スロー・リーディングの実践』PHP新書415、PHP研究所、2006/09、ISBN:4569654304に触れてのこと。同書は、書名に見られるように、スロー・リーディング、ゆっくりじっくり読むことを推奨する読書作法書だ。


同書で念頭に置かれている仮想敵は速読法で、速読的な書物とのつきあい方とは異なる、実りある読書をするにはどうしたらよいかということが説かれている。もしも、速く読まねばという強迫観念にとらわれてしまいがちな読者がいたら、有効な解毒剤として作用するに違いない。


読書をめぐる問題としては、読む以前のこととして、数多ある書物のなかからどの書物を読むべきか(限りある人生の時間を使って)を選ぶこと、あるいは選ぶための前提としてどうやって書物との遭遇を果たすか、ということかもしれない。


ショーペンハウエル先生は、『読書について』のなかで、良書を読むためには悪書を読まないようにしなければならない(大意)と述べていたと記憶する。ごもっとも。では、どうやって良書と悪書を見分けるのか。それが存外難しい。だいたい本の良し悪しってなんだなどと考えるとこれまたヤヤコシイことこのうえない。


⇒HIRANO KEIICHIRO official Website
 http://www.dd.iij4u.or.jp/~k-h/index.html


PHP研究所
 http://www.php.co.jp/


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【追記】2006/09/17


平野氏がはてなダイアリーでブログを開設したようです。


平野啓一郎ブログ
 http://d.hatena.ne.jp/keiichirohirano/

*1:余談だけれど、『明六雑誌』に寄せた論文のなかで、西周が「旧幕の中葉、読書人を視て狂とし顚とす」と述べていたことを思い出す。読書人は気狂いだとみなされていたというのだけれど、これは本当なのだろうか。