小林秀雄「アラン「大戦の思い出」」

小林秀雄「アラン「大戦の思い出」」(1940)

「人間は、義務という一般観念によって動くのではない、つい鼻の先きの事件にかかずらう、その中に義務を見るのだという考え方はアランの重要な思想の一つである」

「多少でも詩の翻訳の経験のある人なら、誰でも知っているところだが、僕等の注意力は、いよいよ原文の独特さ掛け替えのなさというものに、どう仕様もなく、僕等を引摺って行くものだ。僕等の注意力が増せば増すほど、原文の根を枯らさずに移し植えるという仕事の不可能を痛感する様になる。原文の掛け替えのない鮮やかさは、読む人の注意力に比例する。原形に囚われずに自由に訳そうとするその同じ苦心が、原詩の拘束というものを明らかにするのである。逐字訳がいいか意訳がいいかという様な事は、要するに枝葉の問題で、翻訳者は、こういう自由と拘束との奇妙な縺れのうちにあって、はっきりした方法もなく、暗中模索する、上田敏氏などの訳詩の立派なのも、こういう縺れを楽しい仕事場にしたからである。だが、この問題も考えて行くと、ずいぶん遠くまで行きそうだ」

「原文で読まれるにせよ、翻訳で読まれるにせよ、例えば、アランならアランの思想を、アランという現に今生きている独特な一フランス人に密着して離し難いという点まで下って、これを理解しようとする心構えがなければ、何んにもならないと思。彼等は、自由思想家だとかモラリストだとかいう風に、高みから易しく理解し、易しく利用しようと掛ったりしても、何が得られるものではないのだが、大多数の人がやりたがるのは、そういう無駄事なのだ。なるたけ理解の手間がはぶける様に、平ったくして、鵜呑みに出来る様にとは、誰も知らず識らずやる事で、そういう事に何んの努力が要るものではない。そういう傾向は、誰の裡にもある転がりやすい精神の坂道の様なもので、努力が必要にならなければ、精神は決して目覚めない」

「彼等の思想の精髄は、それぞれ梃子でも動かぬという、頑固無情なものを蔵し、到底所謂教養人などの愛玩に適するものではない。思想にも手応えというものがあるので、よく理解したというところで人は雲を掴む」