柳父章『近代日本語の思想——翻訳文体成立事情』法政大学出版局、2004/11、amazon.co.jp)#0373*


日本語には元来「主語」に該当する言葉はなかった、とは日本語学業界ではしばらくまえから一定の賛同者を持つ説で文献を読むと、門外漢でもなるほどと納得するように説かれている(たとえば、三上章の一連の著作)。


本書は、日本語には元来主語に該当する言葉がなかったとすると、それはどのような過程を経てつくられたのか、という問題をとっかかりとして明治期の翻訳によって日本語の文体がどのように造り替えられてきたかを考察した一冊。著者はかねてより多数の翻訳論を上梓している翻訳研究者・柳父章(やなぶ・あきら, 1928- )氏。


著者は、大日本帝国憲法の成立過程が影響力の大きさからいっても画期をなしていると見ている。同憲法はドイツ語の試案から日本語へ訳出した翻訳文をよりどころに起草されたもので、そこには従来の日本語に照らすと異様な文体の文章が出現している。学校教育を通じて「AはBである」式の文章にすっかり馴染んでしまった私たちから見ると、その異様さはどうしてもやわらぐ(かどうかすると異様に感じないかもしれない)が、柳父氏はぬかりなく明治憲法以前の翻訳事情を参照・対比させることで、教養崩壊世代の私たち(といって言いすぎなら私)にもその異様さがきわだって見えるようにはからっている。


今日流通しているさまざまな用語が明治時代に西欧諸学の導入に際して造られたものであることはよく知られているところで、たとえば「哲学」という言葉は西周(にし・あまね, 1829-1897) が philosophy の訳語として「希哲学」「希賢学」を経てこしらえたものであることを、哲学をかじったことのある人なら知っているかもしれない(ちなみに、西洋各国語における philosophy に該当する語自体も、もととなった古典ギリシア語 φιλοσοφιαを音写したもの)。


著者は「主語」がつくられた次第と同様に、文のレヴェルでも明治期翻訳語による日本語改造の痕跡を追跡する。目次を細かくたどることで、本書の議論が見えると思うのでやや細かくなるが引用しておきたい。

・第一章 「主語」は翻訳でつくられた
 ・序 憲法の問題
 ・1 悪文、大日本帝国憲法
 ・2 それは、翻訳のせいだった
 ・3 明治憲法以前の主語の翻訳
 ・4 教育の場での翻訳
 ・5 「〜ハ」構文の文法
 ・6 「〜は」と「〜が」


・第二章 「主語」はこうしてつくられた
 ・1 論文における「主語」
 ・2 「主語」の文法、その論理
 ・3 近代日本における「主語」の論理
 ・4 漱石の「〜は」への風刺


・第三章 小説における主語
 ・1 小説における人称の「主語」
 ・2 西洋市民社会の主人公
 ・3 「彼」の文法、その論理
 ・4 特別な人物を指す「三人称代名詞
 ・5 「彼は」、「彼女は」への批判
 ・6 「彼」「彼女」への抵抗
 ・7 やはり、「彼は」、「彼女は」は使われている


・第四章 「文」は近代につくられた
 ・1 日本文には、切れ目はなかった
 ・2 句点「。」を打つ苦心
 ・3 結局、「文」がよく分からなかった
 ・4 「文」概念は入っていたが……


・第五章 文末語もつくられた
 ・1 「文」がつくられた
 ・2 「た。」は過去形か
 ・3 過去形「た。」の出現
 ・4 近代以前の「口語文」
 ・5 少数の作家だけが歓迎した「た。」
 ・6 現在形もつくられた
 ・7 「ル形」は、まともな文型ではなかった
 ・8 「デアル。」文がつくられた


・第六章 日本語はつくられていく
 ・1 志賀直哉の翻訳調文体
 ・2 「彼」の到達した個人主義
 ・3 「彼は……た。」の論理
 ・4 漱石の「現在形」


・第七章 「〜は……である。」文の新しい意味
 ・1 歴史における翻訳
 ・2 「〜は」の役割が変わった
 ・3 書き言葉における「である。」
 ・4 「〜は……である。」文の論理
 ・5 日本国憲法前文の「〜は」


・第八章 日本語の論理
 ・1 西田哲学の「主語」論理批判
 ・2 「述語論理」の説——中村雄二郎、木村敏
 ・3 翻訳論の立場から
 ・4 西田哲学と時枝文法
 ・5 さらに翻訳論の立場から


・第九章 A+B→Cの文化論
 ・1 「未知」なままでの理解方法
 ・2 現代の流行現象から
 ・3 異文化「フランス」
 ・4 キリシタンはキリスト教徒だったのか?
 ・5 キリシタンの「転び」
 ・6 「転び」と両立する信仰


・第十章 漢字の造語力と、意味の空しさ
 ・1 「〜は」構文と漢字
 ・2 訓読みの時代
 ・3 音訓併用の時代
 ・4 日本独自の勉強法「素読
 ・5 文字が時代をつくる
 ・6 日本近代をつくった漢字
 ・7 漢字の特有の機能について
 ・8 漢字の「形」の造語力
 ・9 漢字の「意味」の造語力
 ・10 漢字造語力への思い込み
 ・11 「外来語」の造語力


・第十一章 言葉の限界
 ・1 言葉に閉じ込められて
 ・2 言葉の裂け目——パラドックス
 ・3 堅固な言葉、文字
 ・4 差別も文字がつくり出した
 ・5 文字以前の言葉の世界


・おもな参考文献
・あとがき


以上のように、議論は西田幾多郎による述語論理の検討や、言語にあらわれる思考のかたちの検討にまで及んでおり、これまでの柳父氏の作品同様まことに刺激的。ふだん日本語を使う機会が多い方は得るところの多い読書体験になると思う。


この分野には興味深い類書がたくさんある。たとえば柳父氏の翻訳語成立事情』岩波新書黄版189、岩波書店、1982/01、amazon.co.jp)を繙くと、いくつかの具体的な言葉についてその過程を知ることができる。同書で扱われている語は、「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼、彼女」の十語。



また、石塚正英+柴田隆行監修『哲学・思想翻訳語事典』論創社、2003/01、amazon.co.jp)は、やはり明治期に翻訳・造語された哲学・思想の分野で使われている語彙のそれぞれについて、「原語の意味」「翻訳語の意味」の二項目を立ててその来歴と意味を解説している。


こうした翻訳語のおおくは漢語(漢籍)に由来するものだ。当時の教養人なら、そうした漢語がもっていた漢文原典の響きをその翻訳語から聴き取ることができたのではないかと推察する。これは漢文の素養を失ってひさしい現代人(の多く)にとっては真似のできないことで、そういう意味ではこれら翻訳語はいまや西欧語の原語からも翻訳語の由来する漢語からも離れた得たいの知れない語になったのだとも言えるのではないだろうか。


上記した二冊を読むと、こうした語彙にともなうデラシネ感の来歴がわかるとともに、これらの語彙を使うことに自覚的であれ、という当然といえば当然の念を抱かされありがたい。


いずれも翻訳に関心のある向き、こうした語彙を日頃用いる向きには必読の一冊だと思う。


最後になるが、柳父氏の本から一節を引用しておきたい。漢文素読という学習法に触れて、つぎのように述べている。

今日でも、日本の学生、生徒たちの勉強方法には、この「素読」という方法が継承されている、と思う。とくに、日本独特の受験勉強がそうであろう。一定の問題に対して、一定の解き方というものがあって、受験生たちはその解法を丸ごと覚えてしまう。そういう勉強方法が能率的だ、と教えられることが多いだろう。こういう受験勉強を通り抜けた学生は、慨して言うと、日本の学校秀才がそうなのだが、彼らは、問題の意味は、実はよく分からなくても、とにかく解ける。たとえば、大学の教室で、外国語を読ませていると、難しいはずの文章でも、スラスラと訳す。私は、そういう秀才の訳を聞いていて、直感的にピンとくる。「君、その意味わかる?」と聞いてみる。すると正直に、「分かりません。」と答えたりする。この「素読」的問題解決法は、やがてこういう秀才が、社会のいろいろなところでエリートになって後も、受け継がれているのであろう。

(同書、194ページ)


意味が分からなくても解ける、意味が分からなくても訳せてしまう。(自分は秀才やエリートのたぐいではないけれど)翻訳などに手を染めていると分相応に耳の痛い指摘である。たしかに人は、意味を理解していない外国語を自国語に翻訳することができるのだ。


もちろん、素読的な学習方法自体が問題なのではないだろう(それは一定度必ず必要なことでもある)。そのさい同時にわからなさをかみ締める思考法がともなうかどうかが本当の問題であることは言うまでもない*1


柳父章の最近の仕事です
 http://www.hcn.zaq.ne.jp/cacmk700/
 著者・柳父章氏のウェブサイト


⇒iiV Book Lounge
 http://www2.iiv.ne.jp/booklounge/
 2005年「4月第1週のおすすめの一冊」に著者による本書の紹介映像がある


法政大学出版局
 http://www.h-up.com/

*1:話は飛ぶようだけれど、ジョン・サール人工知能批判のために創り出した「中国語の部屋」という思考実験——中国語を一文字も理解できないサールがある部屋に閉じ込められる。外部から中国語で書かれた質問が投げ入れられるので、サールは部屋のなかにあるマニュアルにしたがって一言も理解できない中国語による回答を作成して部屋の外へ出す。このときサールは中国語を理解していると考えてよいかどうか?〔よくないだろう〕という実験——を思い出す。