そして今日も仕事ですがなにか?(萎え進行)

気をとりなおして――


前田英樹『絵画の二十世紀――マチスからジャコメッティまで』(NHK BOOKS996、日本放送出版協会、2004/04、amazon.co.jp


を読みはじめる。


19世紀なかばの写真機の登場をうけて、画家は「写真ならざる絵画の面目というものを、改めて、徹底して考えざるを得なかった」。一方では――

写真以後の視覚に侵入された画家たちがなくしたものは、このような〔静止したものでしかありえない絵画に、無数の運動・持続を描きこむことで創りだされる〕凝縮力にほかならない。〔ジュール・〕ブルトン、デュプレ、バスティアン=ルパージュらが描く農村画にあるのは、持続の凝縮ではなく、その切断であり、生の均衡ではなくその突然の停止である。彼らの描く群像では、それぞれの人物は、任意の瞬間にその動作を中断されていて、互いの連携や集中を欠いている。こうした瞬間は設けられる数だけあり、どこまでも等価である。(中略)写真的視覚に侵入されたアカデミストたちの絵は、肉眼が捉えることのないような表情の細部を描き出す。けれども、それらの細部はその人物が生きて凝集している時間の流れとかかわりがない。その人間をまさにしかじかの人物にしているものは、時間のそのような凝集、つまりは記憶の働きであり、個性ある意識の持続なのだが、彼らの絵はそこに任意の切断しか持ち込まない。この切断も一種の運動である以上、いくばくかの時間を要するわけだが、切断のスピードは写真機のシャッターを模して恐ろしく速い。その結果、モデルは<人物>というよりも、一瞬のうちに凍結され、機械で採集されたかのような感情や意思のさまざまな切断面を顕す。このような切断面が動く事物のなかに在りうることを、人類は写真が登場するまで知らなかった



ここで名をあげられている画家たち(せんだって、ミレーとともに展覧に供された画家たち)の絵が、前田さんの言うようなものであったかどうかは、いまいちど作品そのものをみなおしてみることにして。


他方では写真に抵抗するように絵画だけがなしうることを探究した画家がいた、というお話。たとえばモネ。

観念も推理も解釈も振り払って、ただ見えるものだけを描くこと、そのことに必要な全技術を発明し、投入すること。モネの、言ってみれば桁はずれに単純なこの制作動機は、彼の天才がなければ決して維持されるものではなかった。光はとどまることなく変化する。ということは、描く対象は絵具がパレットからカンヴァスに届く間にも、変化しているということだ。画家はそのうちのどの瞬間を描くのか。その選択は、記憶を用いずには不可能だろう。純粋視覚に関するそうした記憶は、どこまで保つことができるのか。

同書「第一章『感覚の絵画』の誕生」より


写真以後、絵画はどのように変容したのか/せざるをえなかったのか。絵画の困難と探究を四人の画家――マチスピカソ、ルオー、ジャコメッティ――の作品を通じて考える一冊。


……おもしろい。これは会社に行って汽車犬のように働いている場合ではない。というわけで明日から三日間は失われた黄金週間のかわりに仕事をサボタージュ。本書ほかを読みふけることに決定。というのは嘘で、わけあって東京を離れる。ではまた、ご機嫌よう。