★岡崎乾二郎+松浦寿夫『絵画の準備を! Ready for Painting!』(朝日出版社、2005/12、amazon.co.jp)
歴史の上には、その出来事の前後で決定的に物事が変わってしまうという画期の数々がある。そうした画期を事後の眼で見るとき、その出来事のインパクトを頭では理解できても、いまひとつ実感が沸いてこないという類いのことも多々ある。たとえば、19世紀末の録音技術の発明以前以後では、それを利用する人間の生活には大きな変化があったはずだが、生まれたときからそのような道具の存在が当たり前になっている私たちには、かえってそのインパクトの大きさがよくわからない。それがなかった時代の生活をうまく想像するのは難しい。
美術史の教科書を読むとき、それに似た困惑を感じたことはないだろうか。ルネサンスのどこがそんなにすごいのか。なぜ、セザンヌが偉大なのか。ダダやシュールレアリスムの運動はなにがおもしろいのか。どうしてデュシャンの「泉」が画期をもたらしたのか。モダニズムとはなにか? なるほど美術史家の解説を読めば、その出来事の強度がなんとなく了解されるということはある。しかし、ではほんとうにその出来事の強度を芯から受け止めたかといわれるとどうにもこころもとない。そんな経験がないだろうか。
さらに厄介なことは、美術の歴史の上で一度あらわれた作品は、(当たり前のことだが)それ以前からある全ての作品、それ以後にあらわれる全ての作品とともに存在するようになる。つまり、その作品の登場に立ち会わず、後から生まれてきた者にとっては、全ての作品が歴史的文脈にかかわらず、同じように存在している。
(これは私の場合だけかもしれないけれど)美術史の書物を繙いてみたくなるひとつの動機には、ある作品が発表された時代の中で湛えていたであろう効果を、擬似的にであれ近似的にであれ、より強く体験してみたいという欲求があるように思う。
だが、そうした欲求から美術史の書物を手にとると、しばしば失望させられる。そうした書物では、奇妙な中立が装われており——もちろん過去の全ての作品の中から有限の作品を選択している時点で中立ではありえないのだが——ともすると解説は無味乾燥で微塵も興奮できないのである。そこからは、個々の画家が、なぜほかならぬそのような作品を創るに至ったのか、という切実さがかけらも垣間見えてこないのだ。
というのは、特定の美術史書を指しているわけではなく、これまでに出逢った類書を戯画化して思うところ。
とはいえ、絵画なら絵画のもつポテンシャルをどこまで読みぬくかということは、言うほと易しいことではない。ミモフタモナイことを言ってしまえば、絵画とは誰にでも読みぬけるものではない、と思う。もちろん、絵画を見てなにを思うのも自由だ。一幅の抽象画を見て、「なんだ、こんな子どもの落書きみたいなもの。これなら俺にだって描ける」との感想を持つことは言うまでもなく自由だ(実際、それが的を射た評言であることもありえる)。正しい解釈があるというわけではない。
しかし、ある絵画が何に挑戦をし、何をやり尽くそうとした痕跡なのかということを見てとるためには、それに必要な基礎教養、思考力が必要になってくる。ちょうど、何の訓練もなく哲学書や科学書を読みこなすことができないように、絵画を眺め、それについてなにかを語るためにも、しかるべき知識と経験と思考がものを言うだろう。
本書、『絵画の準備を!』は、それぞれが美術作家でもある岡崎乾二郎(おかざき・けんじろう, 1955- )氏と、松浦寿夫(まつうら・ひさお, 1954- )氏による美術をめぐる対談の書。絵画にどこまでも寄り添い肉薄する二人の議論は、一幅の絵画を見るということがそれほどたやすくはないことをとことん教えてくれる。
この書物には九つの対談が収められているのだが、読者は全体を通してほとんどただ一つのこと「絵画を描く・観る・語るとは何をすることなのだろうか?」という問題が縦横無尽に語られる場面に立ち会うことになる。
どこから読み始めてもよいのだが、たとえば、こんな件に対話者たちの関心の所在が強く現れているように思う。
たとえば近代絵画は、作品が予定調和的におさまるべき場としてあらかじめ平面性を設定していたが、マティスにしてもピカソにしても、むしろ、そんな落ちつく場がまったくないかのように絵を描いていたということですね。ピカソの絵をスタインバーグは、観客に参加することを要請する絵画だといったわけだけれども、これは実際は要請などという悠長なものではなく挑発であり、到底これは絵としては成り立たないという破綻だけがまず見えてくるような描き方をピカソはしているわけです。それはなぜか。たしかに実際にわれわれが絵を描くということは、そのまま、まずは与えられた平面を壊していくということによってしかはじまらないわけですね。絵具を置くということはそういうことであった。それは絵を描いたことのある人間にとってみれば自明の事柄です。にもかかわらず、それがどこかで逆転し、結論が先取りされてきているところがある。
(p.203、岡崎氏の発言より/強調は引用者)
何があるものを絵画と呼ばせしめているか、何がそれを絵画と呼ぶことを可能にしているかという問いをたててみると、あるものを絵画として統合する言説というのは多様にあって、そのなかのひとつとして平面性という概念はきわめて広く流通したし、他の芸術の形式と絵画形式とを分かつという意味でとても重要な概念だったわけだけれども、絵画を統合する概念として平面性を要請するとき、それはすでに描かれた作品から帰納的に抽出された概念であるのに、それが絵画という行為を発動させるためのア・プリオリな条件として、ほとんど一種の公理、手に触れることが禁じられているような公理、ドグマとして設定されてしまう。
(p.205、松浦氏の発言より/強調は引用者)
もしここで両者が別様に指摘している、「絵画の自明性」——絵画ってこういうもんでしょ?——の転倒ぶりに無自覚な人がいるとしたら、その人の描く絵はひどくつまらないものであるに違いない。もっとも「なぜ自分はほかならぬこのようなキャンバスに向かうのか?」ということを自問しない画家もいないとは思うのだが。では、なんでもかんでも既存のルールを疑い単に破壊してまわればよいのかと言えば、それとても既にダダが敢行した結果を私たちは知っているし、その延長上で何かを生産するのはこれもまた難しいだろう。
歴史に繋留しながらそこから身をもぎ離そうとすること。これはいささか撞着語法的〔オクシモロニック〕な営みとはいえ、以上のような懐疑を抱いた後になおも絵画を描こうとする者にとって避けられない道行きのようにも思える。ゲームのルールに従いながら、ルールを極限まで酷使し、ルールが織り成すゲームの空間を突き抜けようと試みること。20世紀初頭のモダニズムの絵画と呼ばれる作品が試みたのは、まさにこの困難だったはずだ。
美術館という制度がよくもあしくも、その展示品の選定において「これが美術作品だ」というひとつの規範を示していた時代なら、上記の問題はそれほど問題なく共有されたかもしれない。なぜなら、美術館が示す美術作品の境界によって、逆にそこから、なぜあれが展示されてこれは美術品とみなされないのか? という疑問を引き起こしもするだろうから。しかし、デュシャンのレディメイド(お店で出来合えの商品を買ってきてサインをして「作品」に仕立てたもの)以降というべきか、経済的な問題が深刻になりはじめてからというべきか、美術館に展示される作品は、言ってしまえばなんでもありになっている。それこそ従来の美術作品はもちろんのこと、デュシャンまがいの作品から、スターウォーズやヴィデオゲームまで、今日、美術館に展示されないものはないのではないかと思うほどだ。
その良し悪しはまた別のこととして、こうした状況、つまり、美術の境界線が限りなく曖昧になりつつある状況で、いくらかなりとも自覚的に絵画に携わろうと思うなら、もう一度モダニズムの試みと成果をチェックしなおすことは切実な問題であるはずだ。しかし冒頭にも述べたように、時代がくだって、併置されるものの種類が増えるほど、人はなぜかつてそれ(たとえばモダニズム)が、時代の中である強度を持ちえたのかを理解しがたくなっていくように見える。
だが、そこが本書『絵画の準備を!』の優れた点なのだが、対話者の議論を追ううちに、(絵画に携わろうというほどの人ならば)読者はいやでもそうした問題に直面せざるを得ないということに気づかされるだろう。しかもそれは空理空論ではなく、自らも手を動かす作家たちが、古今東西の具体的な作品の鮮やかな読解を遂行しながら提示してくれているのだ。
読者が絵画を描く立場でも観る立場でも語る立場でも、本書から大きな刺激と制作・思考の手がかりを与えられることは間違いない。ここに収録された対談は、古いものでは10年前に遡るものだが、読めばおわかりのとおり、一向古びるところがない。むしろそこで指摘された問題が、いまなお私たちの周りに横たわりつづけていることに気づくだろう。
本書は、2002年にセゾン現代美術館のセゾンアートプログラムから刊行されていた。この最初の版を読んだ読者も、今回大幅なヴァージョンアップを施された朝日出版社版を手にとる価値は大いにある。というのも、セゾンアートプログラム版の8つの対談に加えて、さらに新しく収録された対談が第9章として追加されており、また、書物全体に対して注釈と図版が大幅に増補改訂されているからだ。また、巻末には索引と「文献リスト」が追加され、書物には浅田彰氏、いとうせいこう氏、島田雅彦氏による推薦文を刷ったリーフレットも挟み込まれている。
この必読の美術書が、面目も新たに読めるようになったことを喜びたい。興奮できる美術書をお求めの向きは、なにをさしおいても本書を入手されたい。また、本書の対談者二名と浅田彰氏が編集を務めた『批評空間 臨時増刊号 モダニズムのハードコア』(太田出版、1995/03、amazon.co.jp)も併せて読みたいところ。
最後に目次を掲げておこう。
1 純粋視覚の不可能性
・純粋視覚の不可能性——ミニマル・アートとレディメイド
・無防備さ——レアリスム
・欲望の断絶——マネ《バルコニー》
・対象に還元できない視覚像——印象派
・パッション=受苦
・宮沢賢治「デクノボー」と「白象」
・アノニマス
・プリミティヴの実体化
・受苦を背負う作品
・道徳からの切断
2 代行性の零度
・代行性の零度——デイヴィッド・ワトキンの三つの公準からトロツキーへ
・欠如としての象徴形式——中世からルネサンスへの空間の変容
・想起の要請——ルネサンス
・パラディグマティックな空間
・現在=遅れの発見
・現代絵画の平板化——ティツィアーノ《田園の奏楽》
・現在性への幻想——ミニマリズム
3 無関係性
・抽象表現主義の受容
・リベラリズム
・上手い/下手
・無関係性
・未来の人間
4 「国民絵画」としての日本画
・「国民絵画」としての日本画
・変換可能な主題と形式
・記憶の古層への回帰
・ローカル・カラーとはなにか
・個別な感情の吸収装置
・ポピュラリズムとシュルレアリスムの通底
・小さなサブライム
・ジャンル・国家間の差異の解消
5 平面性の謎
・平面性の謎
・視覚性の謎
・印象主義
・モネと本居宣長
・モネに抵抗する
・疑惑と戸惑い
6 誰がセザンヌを必要としているか(I)
・セザンヌの徴候——二十世紀におけるその位置づけ
・セザンヌの歪み
・触覚値
・セザンヌの美術史理解
・正当性の原理
7 誰がセザンヌを必要としているか(II)
・イメージとしての視覚現象
・絵画の約束論争
・ロザリンド・クラウス『ピカソ論』
・モダニズムの視覚性
・マトリクス
・形象性
・ヴェドゥーダ——中景の論理
・アブソープションとシアトリカリティ
8 モダニズムの歴史という語義矛盾
・リヴィジョニズム
・モダニズムとフォーマリズム
・規定的判断力と反省的判断力
・領土——一歩手前をいかに確保するか
・呪術と技術
・資材性——ブリコラージュ
・月の住民
9 メディウムと抵抗
・自然法——ベンヤミンの神的暴力
・非同期性
・表象=代行性
・時間的 order の解体
・メディウム・スペシフィック——ジョン・ケージ
・ジャンルの分別——レッシング『ラオコーン』
・現在性——イタリア未来派
・ユビキタス=同時偏在性
・抽象からはじまる
・後期印象派問題
・記述/ナレーション——谷川俊太郎『定義』
・絵画における空間と時間
・スケールの独自性
・旧版のあとがき
・増補改訂版のあとがき
・文献リスト
・図版出典
・人名索引
・事項索引
⇒作品メモランダム > 2005/05/02 > モダニズムのハードコア
http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050502
⇒朝日出版社 > 『絵画の準備を!』
http://www.asahipress.com/2005/painting.html