作家アーサー・C.クラーク(Arthur Charles Clarke, 1917-)はH.G.ウェルズ(Herbert George Wells, 1866-1946)の名作『宇宙戦争』(The War of the World)(1898)に寄せた序文で、物語の結末を明かしながら「本書の結末を明かしてしまったが、このくらいで読者の皆さんの楽しみが損なわれることはないはずだ」と言っている(だからまだ読んだことがなく、結末を先に知りたくない向きは、彼の魅力的な前書きをあとまわしにしたほうがよいかもしれない)。
なにがそうさせているのか詳らかにする準備はないけれど、小説『宇宙戦争』について言えば、それはおそらく主人公の哲学者が報告する状況とその分析の手つきにあるように思う。彼はこの小説の中で語り手のポジションを与えられている。
小説の冒頭はこんなふうに彼の回想から始まる。
十九世紀末、よもや地球人よりも進化し、地球人と同じく有限の寿命を持つ知的生命体が空の彼方から真剣に、しげしげと地球を観察していようとは誰も思わなかった。
この生命体は何も知らずにあくせくと暮らす地球人を、水滴の中で増殖する微生物を顕微鏡で観察するかのように研究した。それに引き替え、わたしたち地球人は物質文明の頂点に立ったつもりで、その地位になんの不安も抱かず、日常の些細な問題で頭をいっぱいにして地球上を右往左往していた。まさしく、顕微鏡の下でうごめく単細胞生物の動きだったに違いない。夜空に輝く古い惑星の住人が地球に危機をもたらすとは、誰も考えつかなかった。ほかの惑星の存在を知る者も、生物のいる天体は地球だけだと思っていた。
(斉藤伯好訳、ハヤカワ文庫SF1513、p.25)
これは話者である「わたし」の考察だ(彼が事後にふりかえっていることにも、すでに出来事の結末は暗示されている)。火星人来襲の模様は彼の眼を通じて語られることになるわけだが*1、状況の変化と、それを経験しながら意味づけ、経験の積み重ねを通じて見解を修正していく「わたし」の思考の動き、この二重の描写が物語りに奥行きを与え、読む愉しみの源泉となっているように思う。
そんなことは、一人称で書かれた小説なら当然のことに過ぎないじゃないか、とも思うのだが、それでは一人称で書かれた小説を読めば同じ愉悦が得られるかというとそうでもない。
言うなれば、ウェルズの小説の語り手には科学的な思索が伴っている。ときに恐怖や不安に脅かされながらも彼はできるかぎり冷静に事態の成り行きを見つめ、科学的な知見と思索を働かせる。彼は目の前で展開する火星人来襲という不可解な出来事に遭遇しながらそれを完全に言い当てることができないという状況に興奮しているようでさえある。ここには、生物学者T.H.ハクスリー(Thomas Henry Huxley, 1825-1895)――オルダス・ハクスリー、ジュリアン・ハクスリー兄弟の祖父――に学んだというウェルズの科学的な眼が活きているに違いない。またそのようなものの見方には、ちょうど同時期に発表されていたシャーロック・ホームズを主人公とする一連の推理小説でホームズが発揮する観察眼に通じるものがあるように思う。
ところでスティーヴン・スピルバーグ(Steven Allan Spielberg, 1947- )がこのウェルズの小説を原作として監督した映画『宇宙戦争』(The War of the World)(2005)では、舞台を19世紀のロンドンから20世紀のアメリカ合衆国に移している。脚本のデヴィッド・コープとジョシュ・フリードマンは、主人公を哲学者からレイ(トム・クルーズ)という労働者に置き換え、そこに彼の家庭問題を導入する。
もはやCGによる合成映像かどうかということがほとんど気にならない昨今の映像技術には、かえっていまさらながら驚かされるばかりだが、映像に違和のない分、火星人の地球侵略の手法に眼が行ってしまうのはご愛嬌。
私が記憶していないだけかもしれないが、映画では火星人がなぜ地球を侵略するのかという理由(の推測)がいまひとつ曖昧だ。冒頭のナレーターは、なんだかまるで地球がいい場所でうらやましいから侵略しようと思った、という理由を提示していなかっただろうか。ウェルズの小説では、火星が寒冷化によって住めなくなり、火星人たちが次なる居住先として地球を選んだことが説明されている。
もっとも侵略の理由がわかったとて、襲われる人々の状況が変わるわけではないと思えばこの違いはたいした問題ではないのかもしれない。しかし火星人の地球攻略法については、見過ごせない問題(オオゲサな!)がある。
原作では火星人は映画でも用いられていたレーザーのほかに、人間を殺す成分を含む毒ガスを用いていた(興味深いのは、火星人が撒いた毒ガスを用済み後に中和までしていることだ)。映画ではこれを使うと主人公を生き延びさせづらくなるためか、毒ガスは用いられず、こともあろうに(?)火星人はマシーンに備わった触手で家の中に探りをいれるのだ。これはなんぼなんでも効率が悪く、主人公たちが隠れる家に触手がにゅーっと侵入してくる場面は思わず笑いを誘う。
——と、あちこちの細部に目がいくのは大筋がよく創られている証拠でもあり、事実この映画はウェルズの小説とは別の意味で、あらかじめ結末を知っていたとしても充分楽しめるスペクタクルに仕上がっている。
中でも人間心理の描写が印象に残る。正体がわからぬ落雷を恐がりながらも落雷地点に群れ、地面にできた穴の周囲で騒ぐ人々。主人公のレイに至っては、まだ蒸気の立ち上るクレーターに手を伸ばし、得たいの知れない破片をとりあげ、ポケットにしまいさえするだろう*2。携帯で写真を撮る者もいる。しかしひとたびそのクレーターから火星人のマシーンが姿を現すやいなや群集は一目散に逃げる。逃げて振り返らないのかと思えば、少し離れたところで自動車の陰からまたマシーンの様子を伺う。中にはハンディカムで映像を記録する者までいる始末*3。しかし、火星人が本格的に殺戮を始めると、人々は本気で逃走を始めるだろう。
そう、主人公をはじめとする人間たちは、火星人に襲われながら常に好奇心と恐怖心のあいだを揺れ動いている。これはウェルズも強調したところで、小説では火星人の正体が見える前のクレーター周辺で、もの売りまであらわれている。
だが火星人の人類殺戮の意図を悟り、好奇心から恐怖心へ針が振り切った後も、目の前で火星人のマシーンが破壊されるや否や、針は再び好奇心の方へと戻る。人々は逃げまどうのをやめて、動かなくなったマシーンの周りに集まり、目をみはりながら徐々にそのマシーンに近づいてゆく。不明なものから目を離せず、好奇心の赴くままに観てしまうというこのおかしな状況。
これを一言で言えば「野次馬根性」というわけだが、考えてみれば劇場に参じて安全な場所から他人の惨事に一方的な視線を送る私たちこそが最大の野次馬であると、エンドクレジットを眺めながら思い至る。