大岡昇平『成城だより』(上下、加藤典洋解説、講談社文芸文庫講談社、2001/03, 04、amazon.co.jp


昨日(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20040731)入手した蓮實重彦『言葉は運動する 事件の現場』(エピステーメー選書、朝日出版社、1980/12)を読んでいたら、最初の対談の相手が大岡昇平で、『ユリイカ』1980年8月号にこの対談が掲載された当時、大岡昇平が『文學界』に連載していた「成城だより」について言及があり、同書を読みたくなった。



東京駅のほどちかく、八重洲ブックセンターに赴いて本書を手にする。フリッツ・ラングが映画にした『ドクトル・マブゼ』の原作小説の翻訳が早川のポケミスから刊行されていて思わず手にとるも、近頃すぐに読めない本を購い過ぎているのではないかという自制/自省が働き、そっと平積みの山に戻す(焼け石に水とも言う)。


店内を彷徨していると、青年の三人組とすれ違う。すれ違いざまにこんな感慨が耳にはいる。


「なんかもっと使える書店はねェのかなァ〜」


――そういうことは書店の使い方を覚えてから云うべし*1


八重洲ブックセンター併設の喫茶店にはいり、『成城だより』を読む。この本は、大岡昇平が1980年から1986年にかけて書き継いだ日記体の雑文的日録を集成したもの。気温、出来事、交友、手にした書物、観た映画、考えたことなどが自由自在に遠慮会釈なしに記されていて面白い。



たとえばある日の日録にはこんなくだりがある*2。この日の日録は高山一彦の『ジャンヌ・ダルクの神話』(講談社現代新書642、1982)を読んでの感想からはじまって、昔観たカール・ドライヤー*3の『裁かるるジャンヌ』(1927)を思い出し、この映画が日本でいつ封切られたのかを田中純一郎『日本映画発達史 II』(中公文庫、1976)で確認し、そうだ蓮實さんに話を聞こうというので電話をするところ。


古き映画について、今日一番よく知っているのは、蓮實重彦氏である。氏の著書『映画の詩学』〔『映像の詩学』?〕その他を引っくり返してみたが、ない。おかしい。電話する。
「あなたはドライエルのジャンヌについて書いてないけど、あれはいけないんですか」
と質問するに、
「いや、最も好きなんですが、ちょっとまとまらないのですよ。一つ短文を書いたことがあるけれど、単行本に入れてないんです」

『成城だより(上)』p.283



しばし蓮實さんとの電話のやりとりが記され、そこから蓮實さんが「高価なる映画の本をいつも」くださる、と一言あって、そのようにして蓮實さんからもらったと思しい『ヒッチコック 映画術』(晶文社)の感想へとうつってゆく……。


こういう日録はどうして面白いのか? 下巻に解説を寄せている加藤典洋氏の評が言い当てているように感じる。

この日録の面白さは、どのようなものだろう。
ここには、何より記録された一人物の日常を読むことの快楽がある。考えてみると、たぶんそれは、ここで大岡が何度かのめりこんでいる探偵小説を読むことの快楽に通じるものである。つまり、すべての活動の内容物が、いわばある無関心の分厚い砂の層からできた濾過の「樽」を通過し、生な「ついた」関心から遮断され、語られている。彼は、毎月送られてくる文芸誌の小説や評論に感想をもらし、自分の関心にふれ、取り寄せた文献について述べ、目下執筆中の仕事の進捗状況を語り、以前からの一貫しての関心事である富永太郎中原中也についての調査の一端を記し、また、自分の体調について、病院通いについて、書く。そこには、一貫した距離の感覚、また野蛮なまでの戦闘心がある。
彼はけっして深追いしない。庭の落ち葉を掃いているが、けっしてちり取りには掃き寄せない。語りっぱなしの呼吸が、少なくともこれまでの二度発表された「日記」〔「疎開日記」1946-1948、「作家の日記」1958〕と違い、これをノンシャランな「日常生活」の文、よい眺望をもつ地形、いわば”眺めのよい部屋”にしている。
なぜ、語りっぱなしが、快いのか。
わたし達はこの文章の記述から、ある書斎の情景を垣間見る思いがする。語ろうとして語られるのではない、いわばそのむこうに置かれている語りの背景。そういう生活の質感、余白の存在感が、これを読むわたし達に、さまざまな音色を聞かせる。

加藤典洋「その堅実な文体について」(『成城だより(下)』pp.391-392)


付け加えれば、触発をうける愉しみもあるように思う。


たとえば上記の日録を読んだ小生は、その日の大岡氏の思考を追うようにして『ジャンヌ・ダルクの神話』、『日本映画発達史』、『映像の詩学』、『ヒッチコック 映画術』を書棚からひっぱりだし、ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』は手元にないので『聖なる映画作家カール・ドライヤー』を打ち眺め、さらにはここからまたさまざまな書物や作品へのリンクをたどってみたいという気持ちをうえつけられてしまった。

*1:覚えたあとは黙って「使える」書店に赴くべし。

*2:これはたまたま蓮實さんの書物に導かれて『成城だより』を手にしたからというだけの理由でこの箇所を引くのだけれど。

*3:amazon.co.jp で「カール・ドライヤー」を検索したら、頭に当てるカール・ドライヤーと映画が混在していた。