筑紫哲也編著全共闘 それは何だったのか』(現代の理論社、1984/12)#0229


当時、朝日ジャーナル編集長を務めていた筑紫哲也(ちくし・てつや, 1935- )氏が司会者となって全共闘関係者とその後の世代の人を集めて行った討議の記録。初出は、雑誌『現代の理論』(この雑誌は2004年に復刊されている)。


ここでは本書の構成を示したあとで、いくつかの論点をひろっておきたい。

筑紫哲也「ポスト全共闘としてのいま」
・橘川俊忠+立松和平藤原新也筑紫哲也「肉体が喪失する時」
浅田彰三田誠広筑紫哲也全共闘って何」
猪瀬直樹+橋本克彦+筑紫哲也全共闘運動が照射した「日本近代」」
亀和田武柴田翔島田雅彦筑紫哲也「たしかにあそこで何かが変った それは何だったのか」
・安東仁兵衛+上原駿介+岡留安則高野孟+宮崎徹+筑紫哲也「いまだ総括されず」


討議全体の内容については、筑紫哲也氏による「ポスト全共闘としてのいま」に尽くされている。「いま」(本書刊行は1984年)社会のなかで意思決定の主導権を握っている団塊の世代全共闘の世代にはどのような特徴があるのか? これがこの討議を開くにあたっての筑紫氏の関心の所在。ついでに記すと、当時、「全共闘(回顧)ブーム」なるものが起こっていたらしい。


興味深いのは、二回目の討議に参加している浅田彰氏についての評価で、これはいわゆる「ニュー・アカデミズム」の残響を事後的に伝聞形で受け取った私には興味深い。少し長くなるけれど引用してみる。筑紫氏によれば、こうだ。

……「全共闘」と「いま」との関係に限ってみるだけでも、浅田彰の登場とそれが引き起こした現象の意味は小さくはない。さし当たり二つの点でこのことはいえると私は思う。


一は、質量ともに圧倒的で、その後に続く世代にとって押しつぶされるような巨大な存在であった全共闘団塊の世代に対して、初めて系統立った形で、論理の組立てを持って批判と異議申し立てを後の世代が行ったという点である。


浅田彰が試みた最新哲学のマニュアル的紹介が、どこまで人々の間に浸透、定着していくかに疑問が付されようとも。(ついでにいえば同様の疑問は近代日本のいかなる新外来思想の導入についてもつきまとっている。ニュー・アカだけをこの点で嗤うことはできない)


よくいわれるように、全共闘運動の終息がその後にもたらしたのは、政治への嫌悪、不信、無関心を軸としたシラケの時代であった。シラケ世代と呼ばれる世代が全共闘団塊の世代に続いた。


(中略)


「管理」の時代の引金を引いたのが全共闘世代であったこと、彼らがやりたい放題やったお陰でオレたちはこういう目に遇っているという憤懣、それに何よりも彼らが”敗け戦”をやっておきながらなぜそんなに大きな顔できるのかという反撥も一方では後の世代にあった。


(中略)


浅田彰の立論と批判は、世代論を越えて、人間の生き方の問題を軸にすることで、それが全共闘世代への批判となってはね返っていく形となっている。「ルサンチマンよ、さようなら」という表現は、からかいをこめた全共闘世代への直接的批判だが、その背後にあるのは、怨念ルサンチマンを含めたひとつの立場に「こだわり」を抱き続ける生き方への疑問である。浅田彰現象を知的風俗化した、有名なスキゾ=パラノの人間類型の分類はここで連動する。「スキゾのすすめ」はそのまま、「パラノ型」の全共闘こだわり派を撃つ武器となる。

(同書、pp.11-14)


ここに述べられていることは、後から書物刊行時の文脈を離れて浅田氏の書物だけを読む立場からは見えないことだ。同時代には浅田氏の言説を批判するさまざまな文章や書物が刊行されていたはずだけれど、その多くは図書館でしかお目にかかれず、いまでも書店に残っているのは浅田氏の本だけという状況である。ところで上に引いた筑紫氏の言葉は、当時浅田氏に理解を示していた筑紫氏の言葉であり、これ自体をどう受け取るかという問題はある(浅田氏の書物を同時代的に受け取った何人かの人たちから同じような評価を直接伺ったこともあることを思い出す)。


それはともかく、浅田彰氏の登場を評する第二の点として、筑紫氏は一見対立している全共闘と浅田氏の「現象」としての同方向性を指摘している。


簡単にいえば、全共闘運動の過程をつうじて維持されたのは、権威・権力に対する抵抗だった。当初その対象は、保守的政治権力(体制)であり、つづいて共闘しているはずの共産党が、さらには大学当局が抵抗の対象となった。この結果、保守権力はたいした損傷を受けず、むしろ管理を強化さえした。もっともダメージを受けたのは、アカデミズム(大学と教師)の権威であり、全共闘運動が物理的(暴力的)にアカデミズムに攻撃を加えたとすると、1980年代に浅田彰氏に象徴されるニュー・アカデミズム(浅田氏自身は、強いていえば「ポスト・アカデミズム」だろうと批判したとの由)が行ったことは、旧来のアカデミズムに知的な攻撃を加えることだった。という見立てである。


この評価の妥当性もいまのところ私には判断する術がないけれど、私(たち)が大学に進学した1990年代には(にも)大学や教師に権威を感じる者はいなかったということを考え合わせると、この点においては全共闘ニュー・アカデミズムによるアカデミズム批判の延長上にあったのだろうかと思えなくもない。むしろ私(たち)にとっては、大学や教師に権威が備わっていた時代のことがうまく想像できない。


筑紫氏は全共闘運動を「「集団」と「個」との関係についての変転過程」と捉えてみせている。「大義と目標を掲げた集団に共鳴することと、個人がその集団に属し、どこまで手段化されるかということの間」にある距離を露呈したこと。筑紫氏はこう規定したうえで、この効果の両義的な意味を分析している。


各討議の内容についてコメントをしようと思ったのだけれど、書物が手元にない状態になってしまったので再び参照できるようになるまで保留しておきたい。


ただ、三田氏や亀和田氏が、あっけらかんと運動のスローガンはどっちでもよく、実際にはほかのことよりも運動に参加することのほうがおもしろそうに見えたからやっていたと述べているのに対して、最後の討議の出席者たちは真剣に運動に参加した者として総括しようとしているという態度の差が興味深かった。


また、最後の討議において、当時沖縄に取材に行っていたという筑紫氏が、沖縄の人々が徹底した暴力装置である米軍と向かいあっていたことを引き合いに出し、そうはいっても全共闘は(機動隊との衝突で死者を出してはいるとはいえ)発砲のかわりに放水で対抗する警察を相手にしていた、つまり、状況の厳しさは沖縄の比ではないのではないかと相対化していたことも印象に残る。これに対して討議の出席者たちのあいだに(というか行間に)険悪なムードがたちこめたのだったけれど、結局は苦しい皮肉(インテリの筑紫さんは……云々)を筑紫氏にかえすにとどまっていた。


左翼的な用語やスローガンのマッチョな硬さも手伝って、ともするとすさまじい闘いが繰り広げられたかのように想像させられることもある。運動に身を投じた人々の証言を軽んじようとは思わないけれど、上記した三田、亀和田両氏の言葉と、筑紫氏による相対化を受けて、どこまで真に受けてよいかということを考えさせられた。映画『LEFT ALONE』での西部邁氏の証言も、運動の実体に関するイメージを相対化するものであったことを思い出す。


この項は、上記書籍を再度手元に置いたら手をいれたいと思う。


⇒『現代の理論』
 http://gendainoriron.web.infoseek.co.jp/index.html