★ジョン・B.ワトソン『行動主義の心理学』(安田一郎訳、現代思想選6、河出書房新社、1980/07、amazon.co.jp)#0317*
John B. Watson, Behaviorism (Norton & Company, 1930)
行動主義(Behaviorism)の創始者ジョン・B.ワトソン(John B. Watson, 1878-1958)の主著。本書の「まえがき」によるワトソン自身の言葉によると、ワトソンが行動主義を提唱したのは1912年のこと(論文としては1913年「行動主義者から見た心理学」。なお本書の初版は1924年刊行)。
行動主義とはなにか? ワトソンは本書において、従来の「内観」による心理学に異を唱える。内観の心理学では、「意識」という「精神的な概念」が研究の対象となっていたが、これに対してワトソンは「観察できるもの」に考察の対象を限定しようと呼びかけている。目に見えず確認もできない心ではなく、目に見える行動を研究の対象にしようという次第(発話も行動に含まれる)。では行動をどのように記述するのか? 「刺激と反応」(S-R図式)のことばで記述できるか否かが行動主義のモノサシである。
以上が本書の第一章で述べられる行動主義——後に論理的行動主義と区別して「方法的行動主義」(methodological behaviorism)とも呼ばれる——の綱領。この方法によってはじめて心理学は自然科学の仲間入りを果たせる、というもくろみでもあった。
ワトソンがもともと動物心理学の研究からキャリアをはじめた人だったことを考えると、人間心理の研究で行動に焦点を絞ろうと考える理路はわかりやすい。動物心理学では、動物の感情や心を忖度したり研究するわけにもいかないので、外から見てとれること、つまり行動だけを研究対象にせざるを得ない。ここに発想の源があって、これを人間に適用したのが行動主義心理学というわけだ。
そこで本書は、人間の行動をよりよく研究するために、人間の身体の仕組みから説き起こしている。そのうえで、赤ん坊を題材にとって、人間に本能はあるか? 情動とはなにか? を行動主義的に考察する。
本書を読むと、さまざまな疑問がわいてくる。たとえばそうはいっても「記憶」と呼んでいる現象は行動にあらわれないからといって否定することはできないのではないか? など。もちろんワトソンもそうした質問を予想しており、次のように述べている。
もし行動主義者が、あなたが使うくせのある、「主観的なことば」というのは、一体どういう意味なのか、と質問するなら、行動主義者はやがてあなたを、矛盾のため、ものも言えなくさすことができるだろう。じぶんは、それがどういう意味なのかを知っていない、とかぶとを脱がすことさえできる。あなたは、社会的な因襲と、ことばの上の因襲から、それを無批判的に使っているのである。
(同書、26ページ)
記憶はその最たるものだろう。実際、後のほうに「行動主義者は記憶をどう考えるか」というくだりがある。
行動主義者は、「記憶」ということばを決して使わないから、どんなに強制されても、それを定義しようとは思わない。行動主義にはじめて案内された人は、このことばが脱けているのに面くらうことが多い。だから、われわれの観察した事実を説明するのに、なぜこのことばを必要としないのかを示すために、ここでは、二、三の説明と類推を使うのがいいだろう。
(同書、270ページ)
こう述べた上でワトソンは、ネズミやサル、人間の子供における「学習」の例を引き合いに出している。一定の刺激=反応を反復した結果、ある習慣が学習・獲得される(たとえば、ベルが鳴ると肉をもらえることを覚えた犬がベルの音でよだれを出す)。学習した動物や人を別の条件下においたとき、この学習結果はどのように変化するか。この差異を測れば、「記憶」という言葉を使わずに済む、というのがワトソンの主張。
このように、行動主義者は、記憶ということばを使う代りに、練習しなかった間、どのくらい熟練が保持され、どのくらい喪失したか、と言うのである。われわれが記憶ということばに反対するのは、それがあらゆる種類の哲学的・主観的な意味をもっているからである。
(同書、273-174ページ)
とにもかくにも、主観を排し、それを勘定に入れず観察できるもの、言い換えれば可視化できるものを研究すること。脳科学の発展にともなって、ふたたび「意識」やその質感といわれる「クオリア」が研究の対象となりつつある昨今からすると、ワトソンの方法は偏狭に見える。しかしながら、可視化されるものからのみ人間の精神現象を記述しよう、と考えるという点では現代の脳科学によるアプローチは、ワトソンの行動主義と基本的な方針を共にしているといえるだろう。
この方法に問題があるとすれば、それは方法そのものではなく、まさにワトソンがそうだったように、自らが設定した方法によって検出されないものごとがあるという可能性を捨象してしまうことだ。この捨象自体は、方法から直接出てくるものではなく、方法を選び取った人間の願望であろう。どのような内面も表現されなければ他者にとってはないに等しい、という主張は妥当だとしても、そのことをもって内面がないことにはならない。後に言語学者・ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky, 1928- )によって行動主義が批判にさらされたのは、この行き過ぎによるものだった。
ひさしぶりに本書を繙いてみて、いまさらながらではあるけれど、映画とはまさに行動主義の原則にのっとった——というか、音と映像に表現できるものをしか表現しえないという点で行動主義にのっとらざるをえない——表現であることに思い至った。
最後に、本書の目次とネット上の関連リソースをかかげておきたい。
・一九三〇年版の献辞
・一九五九年版の献辞
・まえがき
・第一章 行動主義とは何か——古い心理学と新しい心理学の比較
・第二章 人間の行動を研究する方法——問題、方法、テクニック、結果の見本
・第三章 人間のからだ(その一)——その構造、結合の仕方、機能——行動を可能にさせる構造
・第四章 人間のからだ(その二)——日常の行動において腺の演ずる役割
・第五章 人間に本能があるか(その一)——才能、傾向、およびいわゆる「精神的特性」の遺伝という問題について
・第六章 人間に本能があるか(その二)——人間の子供の研究はわれわれに何を教えるか
・第七章 情動(その一)——われわれはどういう情動をもってこの世に生まれてくるのか。われわれはどういうふうにして新しい情動を獲得するのか。われわれはどういうふうにして古い情動を失うのか。——この分野の一般的概観といくつかの実験的研究
・第八章 情動(その二)——われわれはどういうふうにして、情動生活を獲得し、変え、それを失うかということについてのその後の研究と観察
・第九章 手を使う習慣——どういうふうにそれは始まり、われわれはどういうふうにしてそれを保持し、どういうふうにそれを捨てるか
・第十章 しゃべることと考えること——正しく理解できたとき、「精神」のようなものがあるという作り話をどれくらい打ち破れるか
・第一一章 われわれはつねにことばで思考するか——それともからだ全体で思考するのか
・第一二章 パーソナリティー——パーソナリティというものは、われわれが形成した習慣の結果にすぎない
・訳者あとがき
⇒John B. Watson, Behavior and the concept of mental disease (1916)
http://psychclassics.yorku.ca/Watson/mental.htm
⇒John B. Watson + Rosalie Rayner, Conditioned emotional reactions (1920)
http://psychclassics.yorku.ca/Watson/emotion.htm
⇒Classics in the History of Psychology
http://psychclassics.yorku.ca/index.htm
⇒THE PSI CAFE > John B. Watson
http://www.psy.pdx.edu/PsiCafe/KeyTheorists/Watson.htm
略歴と関連リソースへのリンク
⇒HISTORY OF PSYCHOLOGY ARCHIVE > John B. Watson
http://www.muskingum.edu/~psych/psycweb/history/watson.htm
⇒The Internet Encyclopedia of Philosophy > Behaviorism
http://www.iep.utm.edu/b/behavior.htm
⇒questia > John B. Watson
http://www.questia.com/library/psychology/psychologists/john-b-watson.jsp
電子図書館QUESTIAのワトソンの項目