『骨』(94min, 1997)
 Ossos


リスボン郊外にあるスラム街。狭い路地にひしめきあう家のひとつにその(ヌーノ・ヴァス)は住んでいる。若者は、職もなく食べるあてもなければ働く意志もなさそうだ。店のゴミ箱で食べ物を漁る生活を送る男。そこへ病院にはいっていた彼の妻ティナ(マリア・リプキナ)が出産を終えて帰ってくる。


翌日、男は黒いビニール袋をぶらさげて少し下り坂になった通りを歩いてゆく。めったに動かないカメラがこのときばかりは歩く男に速度をあわせながら平行移動する。男は大きな歩幅で画面の左から右へ向けてどんどん歩いていく。表情からは何を考えているのかわからない。なによりもぶらさげた袋が気になる。しかしその袋の中身を直接示すような説明はない。ひょっとしたら幼児を棄てにゆくのではないかという不安がよぎる。どんどん歩きつづける男は、なおも歩きつづけたままぶらさげていた袋をひょいと抱える。まるで乳飲み子を抱えるような手つきだ。やっぱり、赤ん坊を棄てにゆくのか? そもそも赤子だとしたら、生きているのかすでに死んでいるのか。黒いビニール袋に入れられているところをみるとすでに事はなされた後かもしれない。


赤ん坊を連れたまま家に戻らない男。家で気がおかしくなりそうな妻。同じ路地に住み貧しいながらも家政婦の仕事に就くその友達クロティルデ(ヴァンダ・ドゥアルテ)。彼はどこへ行くのか。赤ん坊をどうするのか。甲斐性のない男、という形容がぴったりするように見えるこの男と、彼にかかわる女性たちを映したこの映画のおもしろいところは、多くの映画ならナレーションや登場人物の内心の声、場所や日時を示す字幕、前後の脈絡を間違えようのないように固めるカットのつなぎ、回想、心理をあらわす音楽といった工夫をこれでもかと施すところを、いっさい省いていることだ。


それだけに映画を観るわたしたちの視線は、安定した落ち着きどころを与えられないままであり、つねにこの男は誰なのか、この人物とあの人物はどのような関係にあるのか、彼は何をしているのか、どうするつもりなのか、といったことを考えさせられつづける。いってみれば行動主義、つまり私たちが知覚できる言動のみから他人の心理を忖度するほかにない、という手法によるミニマルな映画である。


もちろん映画とはそもそも音と映像で表現できることだけを表現するのだから、いうなればはなから行動主義的ではないか、といえばそうなのだけれど、先にも述べたようにそうした制限のなかでも現実にはありえない内面の声の表現や他人の記憶の経験を可能にするようなさまざまな技法が開発されてきた。コスタはそうした手法を一切使わずに、ただただ人物たちの言動と風景だけを映してゆく。とりわけ映画の冒頭部では誰が誰だか顔の見分けもつかず、性別もよくわからないまま映像に向かいあうことになる。しかし、思えばそれが他人の言動を観るということの基本的なあり方で、物語においてはいつも説明が過剰なのだということをいまさらながら思い起こさせられる。


さきほどいささか軽率にも行動主義と述べたものの、この喩えが適切に働くのは、他人の言動をあくまで外面にあらわれるものだけに限って見せる、という点に限られる。行動主義心理学では、観察した行動から入力される刺激と出力される行動の関係を仮設して、人間心理の科学的説明を目指すのだった。もちろん、コスタの映画ではそのような仮設や説明は示されない。


ストローブ=ユイレの映画を観たあとでは、そのほかの映画がいささか技巧と作為に満ちすぎているように感じられるのと同じように、コスタの映画を観たあとでは、さまざまな映画がいささか過剰なものに観えるにちがいない。もちろんストローブ=ユイレやコスタのやり方だけが正しいという話ではない。彼/彼女たちの作品を横に置くことで、さまざまな映画がさまざまな表現手法を選び取っている必然性(あるいは必然性のなさ)がよりよく観えるようになるような気がするのだ。そんな映画の観方を教えてもらえることもまた、彼らの映画の数ある愉悦のひとつだと思う。


⇒作品メモランダム > 2004/12/18 > 『映画作家ストローブ=ユイレ
 http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20041218/p3


⇒作品メモランダム > 2005/03/18 > J.B.ワトソン『行動主義の心理学』
 http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050318/p1


せんだいメディアテーク > 「ペドロ・コスタ 世界へのまなざし」
 http://www.smt.city.sendai.jp/pedro/