★渡辺潤+伊藤明己編『〈実践〉ポピュラー文化を学ぶ人のために』(世界思想社、2005/05、amazon.co.jp)#0411
ポピュラー文化研究とは、まさに私たちの身の回りにあふれる文物を対象とする研究のこと。本書は、ポピュラー文化研究のいろはを教える書物。本書の編著者である渡辺潤、伊藤明己の両氏によって、ドミニク・ストリナチの『ポピュラー文化論を学ぶ人のために』(渡辺潤+伊藤明己訳、世界思想社、2003/10、amazon.co.jp)も先に刊行されている。同書は、ポピュラー文化を考察するための理論的な道具をカタログ的に紹介する便利な一冊であった。
ストリナチの本のいわば姉妹編である本書は、考察の対象を日本に移して、さまざまな対象を実際どのように調査するかを説いている。「第一部 ポピュラー文化研究の方法」では、研究手法を解説。「第二部 ポピュラー文化のフィールドワーク」では、お笑い、ポピュラー音楽、演劇、ストリート、マンガとゲーム、消費行動、という項目を立てて具体的なフィールドワークについて論じる。「第三部 ポピュラー文化の諸相」はいわば資料編で、キーワード解説とテーマ案内という構成。
内容については、伊奈さん(id:inainaba)が拙ブログ(2005/05/13のエントリ)にお寄せくださったコメントにつきている、と思った(見事な寸評だと思います)。
チームJuwatは、修士課程の学生も参加している若々しいチームです。いろいろ意見はあると思いますが、一皮むけた情報誌っぽいというか、ぴあ〜CDTV仕様というか、新しいカンジがします。他方、ガチに濃密ラング志向だとコクがないという感想を持たれる可能性もあります。ぱるぼら本仕様で出したらもっとらしい本になったかもしれませぬが。。。
(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050513/p3 コメント欄より)
「ガチに濃密ラング志向」の域には達していない門外漢の愚生にもややコクが足りないように感じられたのはなぜだろうか。本書を読んでいると、対象がそれこそ誰もが日常的に触れているポピュラー文化であるだけに、ついツッコミをいれたくなってしまうという場面もしばしばあった。しかし読了してハタと思ったのは、もしかすると読者にどんどん突っ込ませるのがこの書物の〈実践〉の骨法であったのではないか、ということで、気づけば愚生もその読書をつうじて書物のページには直接書かれていないことがらについて、あれこれと考えをめぐらされたのであった。
冗談はともかくとして。ここがポピュラー文化なるもののおもしろいところでもあり難しいところでもあるのだろう。つまり、身の回りにあふれているものだけに観察調査の材料には事欠かないし伝統的な知的資本の元手が足りなくてもなんとかなる(もちろんあるにこしたことはない)。そのかわり、誰もがそのことについて一家言(とどうかすると玄人跣〔くろうとはだし〕の経験や情報)をもっており、生半な分析ではああでもないこうでもないといくらでも自分の調査や分析になじまない要素が出てくるのではないか。ましてやいまは亡きナンシー関のような凄まじい定点観測者がいる分野ではどうするのか(研究は研究なのでどうもしないのかもしれませんが)。
これは社会調査の例ではないけれど、先の『ユリイカ』2005年4月号(青土社)がブログを特集したさいにも、相当数のコメントがあちこちに出て各々がやはりああでもないこうでもないと述べていた。身近な材料だけに誰もが言いたいことがあるということだろうか。妙な比較になるけれど、これがたとえば2003年3月号のダニエル・リベスキンド特集なら同じようにはならない(もちろんどちらがよい/わるいという話ではない)。
ポピュラー文化を研究するわけではない一読者としては、研究する人がどのように対象に向かい合うのか、ということが垣間見えてその点が興味深い一冊であった。第三部がより濃密であれば——それこそ伊奈さんが上記コメントでおっしゃるようにばるぼら氏の本の仕様であったら——簡易リファレンスとしても使えたかもしれない。
⇒BLOG_inainaba > 2005/05/12 > [books]『<実践>ポピュラー文化を学ぶ人のために』
http://d.hatena.ne.jp/inainaba/20050512#1115915758
伊奈さんによる同書へのコメント。目次情報もある