★平野謙+小田切秀雄+山本健吉編『現代日本文學論争史』(全3巻、未來社、1956)#0412-0414
古本屋が並ぶ通りを歩いていると眼の端にちらりとはいる本の束。人間の認知はどうなっているのか、好きなものと嫌いなものは誰に頼まれなくても感知するようにできているらしい。探している本というのもそうした認知の対象になるらしく、その本を眼の端にとらえてから少しして路面に出ている露台まで引き返す。
ナイロンテープで縛られた三冊の本は、『現代日本文學論争史』(全3巻、未來社、1956)。この本、しばらく前に同じ場所で見かけたのだったけれど、すでに両手がふさがっていて断念したのだった。その後数度そこを通ったのだけれど、見かけず、すでに人手にわたったと断念していたところ。こたびは見送るまいと手にとった。
本書は、書名のとおり、日本文学史上で争われた数々の論争を三冊の書物にまとめたものだ。各種文学論争にかかわる文章を発表された順に配列してある。だから、順を追って読んでゆけば、当該論争の経緯を追うことができるという次第。図書館の書庫で埃をかぶりながら古い雑誌を探しまわるのも愉しいけれど、本書なら一冊で用が済みすこぶる簡便である。
さて、「現代」と冠されているその時期はどこからどこまでかというと、上巻の巻頭に置かれているのが「「宣言一つ」をめぐる論争」で、有島武郎の「宣言一つ」(『改造』1922年1月号)からはじまって、廣津和郎、有島、片山伸、堺利彦と応酬がつづいて河上肇の「個人主義者と社会主義者」(抄録、『改造』1922年5月号)で終わっている。下巻の掉尾を飾るのは「国民文学論争」で、これは谷川徹三の「文学と民衆並びに国民文学の問題」(『文藝春秋』1937年5月号)からはじまり、浅野晃、荒正人、板垣直子、岩倉政治とつづいて、岩上順一の「国民文学論」(『昭和文学作家論(下)』1943年6月)で終わっている(いま、掉尾と述べたが実際にはこのあとに「附録」として「日本浪漫派論争」の討論会が置かれている)。
管見によると論争というものは、きれいに片がつくということがあまりない。論を闘わせる両者がやいのやいのと甲論乙駁しているうちが華でそこが読みどころでもある。飛び散る火花に照らされて問題の争点が浮かび上がってくる。もとよりこうした論争が論争になるのは、万人が認める検証がありえない価値の事柄が問題になるためだ。だからくだらない、という人もあるかもしれないが、だから面白い、と思う。
本書については、時間ができたら収録された論争の一覧と概要を記してみたい。
本書は残念ながら品切れ中。復刊するか、講談社文芸文庫などで文庫化してはどうだろうか。広く読まれる価値のある本だと思う。また、同書の「現代」の範囲は先に見たように戦前であった。同趣旨で戦後版を編んだ人はあるだろうか。ないとしたらぜひ編んでいただきたいと思う。
文学論争で思い出しただけなのだが、『ドン・キホーテの「論争」』(講談社、1999/11、amazon.co.jp)という著作もある笙野頼子氏の、論争系の新刊が出るようだ。ただでさえかたちがよくわからない文学なるものが、ことさらにふにゃふにゃとわからないものになりつつある昨今、文学の側からその境界を見定めようとする笙野さんの仕事に、誰か真正面からぶつかって論争する者があらわれないだろうか(細かくはあちこちで応酬がつづいているようだが)。こちらもたのしみにしたい。
もはや書きながら想起したという以上のことではないけれど、多分野でも興味深い論争史の書物が何冊か出ている。機会を改めてそうした論争書を特集してみよう。