★鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書1788、講談社、2005/05、amazon.co.jp)#0415
鈴木謙介(すずき・けんすけ, 1976- )氏の新著『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書1788、講談社、2005/05、amazon.co.jp)は、現代日本社会のいくつかの側面を、社会学的に分析した書物。
若年層の労働状況(第1章)、社会の監視化(第2章)、携帯電話と人間関係(第3章)という昨今問題視されることの多い状況を材料として概観したうえで終章「カーニヴァル化するモダニティ」では、現代社会は「カーニヴァル(祭り)」を駆動原理にしはじめているのではないか、という本書の見解を敷衍する。
現代においてひとは従来の共同体や伝統による拘束から比較的自由になった。しかしそのかわりに、そうした規範から供給されていた動機や理念も弱まり、自由になったひとは強い動機や理念をもたないままそのつど再帰的に自己決定をしなければならなくなる。こうした状況下では、共同体を維持することではなく、共同性(繋がりうること)を確認するためにそのつどネタ(ワールドカップ、ネットでの「祭り」、瞬発的な労働意欲 etc.)を探りあて、パラノイアックに場当たり的な盛り上がり(祭り=カーニヴァル)に参加することに行動の比重が置かれるようになるだろう。乱暴に圧縮すると、これが本書のいう「カーニヴァル化」の次第だ。
「自由の刑」に処され、大義や使命もないかわりに歴史や伝統を忘却し(言い換えれば従来的な教養をもたず)、それでいながらいまなお従来的な価値規範(たとえば経済的に勝ち組になるべく努力せよ!)が支配的な社会で生きるということはどういうことなのか。本書はそうした現実の一面を浮き彫りにしていると思う。
このような分析対象の性質上、読者が上記の状況に該当するか否かで、かなり受ける印象がかわってくるのではないか。私自身は本書の言うカーニヴァルに乗れない性質なので、カーニヴァル化するということを主観的には実感できない。しかしたとえば、ゲーム会社において日頃は「こんな労働環境で仕事なんかやってられるかよな、おい」とやる気の萎えた社員たちが、そうであるにもかかわらず商品リリース(マスターアップ)の日程が近づくにつれてほとんど大学のサークルのような一体感とノリで、合理的にはありえない労働(時給換算でマクドナルド以下)を進んでこなし盛り上がるという不可解な、しかし新しい商品開発のサイクルにはいるつど起こる出来事を眺めるためのモノサシをひとつ増やしてもらったように思う。
では、そのような状況があるとして、それをどうしたらよいと著者は考えているのか? 終章を読み終えてそう感じる読者を予想して、著者は次のように述べている。
「いかにあるべきか」の前に、「いかにしてあるのか」を徹底して問う、というのが、社会学という学問のあり方だとするならば、現在の私たちは誰も「いかにあるべきか」を語りうるほどに、現在についての知識を蓄積していると私は考えていない。である以上、もうしばらくは「いかにしてあるのか」について問い続ける必要があるといえよう。社会的危機が様々な方面から指摘され「べき論」の溢れる現在だからこそ、そうしたモラトリアムこそが必要とされているのではないか。
(同書、168頁)
なるほど、本書は社会を記述する社会学の書物として書かれているのであった。
拙速なべき論をにわかに仕立てるより潔い態度だと思う。
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