ウィリアムとマドレーヌ
『描くべきか愛を交わすべきか』(98min, 2005)
 Peindre ou faire l'amour


ルノー・ラリユーとジャン=マリー・ラリユー兄弟監督作品。


天気予報士の仕事を早期退職したウィリアムダニエル・オートゥイユ)と会社経営をする傍ら絵を描く趣味をもつマドレーヌ(サビーヌ・アゼマ)の夫婦。仕事を辞めてなにをしてよいのかわからない夫と、やることにあふれて充実した生活を送る妻。


映画はこの二人の関係が変化するさまを静かに追う。


二人はウィリアムの退職を機に都会の生活を辞め、山麓の家へ移り、そこで知り合った盲目の男アダムセルジ・ロペス)とその恋人エヴァ(アミラ・カサール)との交流を重ねてゆく。


それは毎日仕事に出かけて余暇をゴルフで過ごすといったごく当たり前の生活を成り立たせている条件を解体してゆくプロセスでもある。盲目のアダムは、ウィリアムとマドレーヌを、視覚のない世界、触覚の世界があることに気づかせる(前回のユクスキュルについてのメモランダムに引き寄せて言えば、環世界のちがいを教える)。映画には、文字通りの暗闇のなかで、眼の見えないアダムこそが身体感覚の記憶によってウィリアムとマドレーヌを先導する場面がある。観客には音だけが与えられる。


このように幾重にも生きることの意味を解体・再構築されてゆく二人を待っていたのは、当たり前に思われた人間関係の解体・再構築だった。といっても(ことに映画のなかで)諸規範がなしくずしになってゆくことに慣れすぎてしまった現代の観客にとっては、そうはいっても彼/彼女らが行き着く先は知れている(たとえば、一人の青年の来訪によって天災のように生き方を狂わされてしまった一家を描いたパゾリーニ『テオレマ』amazon.co.jp〕などを念頭におけば本作の出来事はずっとノーマルにさえ見える)。この顛末がそれでも十分な説得力をもっているのは、変化に先立ってウィリアムの凡庸な生活ぶりがしっかり描かれているからだと思う。


アダムとエヴァ
映画のあとの監督とエヴァ役のカサールを迎えてのトークのさい、会場の観客からこの映画は68年の思想と関係があるのか、との質問が出ていた。つまり、常識的な諸規範への反抗が企てられているのか、という意味だと思われるが、この質問を受けた監督は「ノン」と答えていた。ここに68年の影響を見るひとがあるかもしれないが、68年の出来事とはいってしまえばパリ・ローカルな出来事であり、この映画が描く山村の人びとの生活にまで深く影響を及ぼしているわけではない、と(大意)。質問も興味深いものだったけれど、回答もまたおもしろい。歴史的な出来事を事後的に資料をつうじて眺めると、しばしばここで監督が言っているような距離感を見失ってしまう。たとえば、60年代末期の日本の学生運動に関する資料を読むと、あたかも大学生が全員学生運動に邁進し、日本中が騒乱でわきたったかのような錯覚を覚えることがあるのだが、もちろんそうではない。


とはいえ、映画そのもののなかには68年の影響の有無を確定する要素はなく、もしも監督がその質問に「ウイ」と答えていたら、粗忽な愚生などはなるほどやはりそうか、などと思ったに違いないのである。