上記の映画に触れて思い出したついでの話に過ぎないが、かつて映像のないヴィデオ・ゲームをつくったゲーム作家がいた。Dの食卓や音楽にマイケル・ナイマンを迎えて制作されたエネミー・ゼロで知られる飯野賢治だ。


さて、その映像のないゲームのタイトルを風のリグレット(ワープ、for SEGA Saturn, 1997; for Dreamcast, 1999)と言う。これは音だけで構成されたアドヴェンチャー・ゲーム、つまり、プレイヤーが物語の主人公となり、提示される行動の選択肢を選ぶことで物語が分岐しながら進むゲームである。ヴィデオ・ゲームというくらいでCG(画面表示)あってのゲームなのだが、このゲームは画面演出を一切おこなわず、すべてを音だけで処理している。


視覚的な手がかりが精密すぎないほうがかえって想像力が働く——古いゲームから最近のゲームまでを見てしばしばそういう感慨を抱いていたのだが、この作品はそのひとつの極限を実現したものだった。もちろん、映像がないことは眼が見えないとはどのようなことか、を考えるためのしかけではない。むしろ作り手は、映像がゼロの状況に置かれたプレイヤーが音を手がかりに自分なりの映像を脳裏に浮かべることを期待したのではないだろうか、と推測する。実際ラジオドラマや朗読ドラマには視覚の自由がある。視覚要素がいっさい提供されないかわりに想像することができるという自由がある。ゲーム業界ではいまもなお、視覚的な緻密さが「リアル」であることの唯一の基準であるかのように映像表現に磨きをかけつづけているけれど(そしてハードウェア性能の向上が拍車をかけている)、映像の緻密さは想像力にとっては拘束でもある。見えすぎてしまうものに想像の余地はない。


そういう意味で、風のリグレットは野心作だったのだが(しかも制作サイドからみれば、開発費の少なからぬ部分を占めるグラフィック制作費がほぼゼロなので歓迎できるつくりではあるはずなのだが)、予定したほど売れなかったのか予告されていた続編も出ずに終わったのだった。


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