モノサシ探し/教養について


2007年01月03日の朝日新聞「モノサシ探し――文化の現場から(1)」(執筆=野波健祐さん)にコメントを寄せました。



昨今の古典人気(光文社古典新訳文庫やクラシック・ベスト100など)を受けて、教養や知のあり方について、どんなふうに眺めているか、そもそもどうして私と吉川浩満id:clinamen)は、「哲学の劇場」などというサイトをはじめたのか、そして『心脳問題朝日出版社、2004/06、ISBN:4255002770)や『問題がモンダイなのだ』ちくまプリマー新書50、筑摩書房、2006/12、ISBN:4480687521)といった本を書くにいたったのか、といったことをお話ししました。前述の記事にはその一端をご紹介いただいています。


なぜ、私たちにお声かけいただいたのか、「ひょっとして教養崩壊世代のサンプルとして!?」と、変な覚悟を決めて取材に応じたのでした。幸い想像ははずれ、野波さんが、昨年12月に刊行した前述のプリマー新書をお読みくださったのがきっかけだったとのことでちょっと安堵しました(笑)。



個人的には、教養が崩壊したかどうかという話もさることながら、そろそろ「教養」という(culture, Bildungに対応する)訳語自体を再検討にかけて、その意味と対象を洗いなおしたほうがよろしいのではないか、とも思います。とはいえ、「じゃあどうするんだ」と言われて「これ」という答えを用意できているわけではないのですが。


〈教養とは社交のためのたしなみである〉(大意)という丸谷才一山崎正和三浦雅士のお三方による座談会「教養を失った現代人たちへ」での議論(『中央公論』2007年01月号)、あるいは橋本治氏の、教養とは「私にとっては意外なもので、どうでもいいようなものである。つまり、教養とは「社交の具」なのだ」という主張(『論座』2007年02月号の特集「「コピペ」化される教養」に寄せたエッセイ)を受けて考えると、それはどんな人びとと社交をするかによっていかようにも変わってくるようにも思います。



ならば、どうして得てして人が「教養」という場合に、文学の古典作品や芸術、あるいはいわゆる人文学が念頭におかれ(たとえば上記鼎談でもそのように語られている)、アニメやラノベやヴィデオ・ゲームがそこには入ってこないのか。これらもときと場合によって立派な社交の道具になるのだろうし、何の役に立つかもわからないまま享受するものにはちがいないはず。


ひとつ言えそうなことは、たとえばアニメやラノベやヴィデオゲームの出現以前に社交のための「教養」を積んだ人びとと、物心ついたときからそれらのものが文学や映画や芸術と一緒くたに並んでいた人びととのあいだにギャップがあるということです。



前者にしてみれば、自分たちがインストールしている教養が社交のための共有知だから、これをインストールしていない輩=「教養を失った現代人たち」となるでしょう。だから「伝統を知るべし」という話にもなろうもの。また、反対に遅れてやってきた世代からみると、「あの人たちは、古いことはよく知っているけれど、『ポケモン』はおろか『テトリス』さえやったことがなくて、いまだにヴィデオ・ゲームを「ファミコンゲーム」と呼んでいる」という次第。


私なんぞはエエ加減なものだから、両方楽しめば(たしなめば)、どっちとも社交ができていいんではなかろうかと思ったりもします。つまり、ホメロスや「万葉集」や漱石を読みつつ、他方で「ドラゴンクエストモンスターズ ジョーカー」や「ひぐらしのなく頃に」をやればよろしいわけです。ただ、ことの順序からいくと歴史的経緯として先行している前者の領域を知ることで、直接間接的に後者のたのしみも多重化するということはおおいにありそうです。


第一、どこまで時代が進んでも、人間が言葉を使ってなにかをつくっているかぎり、この言葉というものの履歴や言語同士がとりもつ複雑にして広大な関係はいつでもついてまわるものだからです。



たとえば、古典ギリシア語やラテン語、あるいはアラビア語を学ぶと、ある種の西欧語の見通しがよくなったり、西洋文明輸入のために大急ぎで漢籍を活用しつつ造語につぐ造語をした明治期の言葉(あるいはそれ以前の言葉)を知れば日本語への造詣が深まるでしょう。また、、もっと言ってしまえば、コンピュータ言語(これももとをただせば、コンピュータに対する命令語を人間に理解可能な意味をもった言葉と置き換えるものです)を知ることで、IT(Information Technology)の「インフォメーション」の意味やそれを支えるコンピュータなる装置についての理解も深まるにちがありません。


そういえば、過日OED(Oxford English Dictionary CD-ROM Ver. 3.1, Oxford University Press)を拾い読みしていたら、驚くべき言葉に出会いました。



ご存知ない方のために申し添えれば、OEDという英語辞典は、採録した言葉について、過去の書物や雑誌のなかで実際に用いられた文章を用例として、年代の古いものから順に並べるという形式をとっています。この辞書が作られた経緯については、サイモン・ウィンチェスターのたいへんおもしろいノンフィクション『博士と狂人——世界最高の辞書OEDの誕生秘話』(鈴木主税訳、早川書房、1999/04; ハヤカワ文庫、早川書房、2006/03、ISBN:4150503060をぜひご覧あれ。


私が遭遇したのは、Game Boyという言葉でした。OEDによればその説明は以下のとおり。

A proprietary name for a hand-held, electronic device, incorporating a small screen, which is used to play computer games loaded in the form of cartridges.


試みに訳せばこうなるでしょうか。

携帯用電子機器の登録商標。小型の画面と一体化したもので、カートリッジを介して読み込まれたコンピュータ・ゲームで遊ぶためのもの。


もちろんこれは任天堂が開発・販売した携帯用ゲーム機の名称です。OEDがメーカー名を出さないのはどういう意図からかわからないのですが、USA Today誌の1989年6月6日号から採られた文例を見ると、

Last weekend..Nintendo unveiled Game Boy, a hand-held portable version of its popular video game.

先週、任天堂ゲームボーイを発表した。同社人気のヴィデオ・ゲームを携帯用にしたてたものだ。


とあり、それが任天堂のものであることがわかるようにはなっています。


また、ここには引きませんが、用例は上記した1989年のものを筆頭に、さらに5例ほど挙げられています。


では、というので PlayStationXboxほか、思いつくヴィデオ・ゲーム機の名称を調べてみましたが、Game Boy以外のものにはまだ出会っていません。いったいどのような基準で採録されているのでしょうか。



ちなみに、リーダーズプラス』にはGame Boyは見えず、プログレッシブ英和中辞典』では、次のように解説しています。

[名](商標)ゲームボーイ任天堂の小型ファミコンゲーム.


「小型のファミコンゲーム」という記述にやや脱力してしまいますが(かつて、「インベーダー」——正しくは「スペースインベーダー」だが——がヴィデオ・ゲームの代名詞であったように、一時期「ファミコン」がその役割を担っていた名残でしょうか)、やはり採録はされているのでした。


それはそうと、語源にまで深く遡って英語の歴史に目を向けるこの歴史ある大辞典にGame Boyという語が拾われているところに、先に述べた「両方ありでいいのでは」という気持ちに通じるものを(勝手に)感じたのでここに記してみたのであります(蓋をあけてみたら、まったく別の基準で採録されているという可能性だっておおいにあるわけですが)。