現代思想第33巻第09号、2005年08月号(青土社、2005/07、amazon.co.jp


2005年08月号の特集は靖国問題


◆1:靖国問題


ちくま新書から刊行した靖国問題(ちくま新書、筑摩書房、2005/04、amazon.co.jp)が25万部を超える売れ行きを見せている高橋哲哉(たかはし・てつや)氏と、靖国の戦後史』岩波新書新赤788、岩波書店、2002/06、amazon.co.jp)や編著『国立追悼施設を考える——「国のための死」をくり返さないために』(新版、樹花舎、2003/12、amazon.co.jp)、憲法九条の戦後史』岩波新書新赤951、岩波書店、2005/06、amazon.co.jp)などの著者・田中伸尚(たなか・のぶまさ)氏の巻頭対談「〈靖国〉で問われているもの」では、政教分離原則を軽視した現状への批判を軸に、祭祀の実態や合祀拒否問題などに触れつつ問題を敷衍している。磯前順一(いそまえ・じゅんいち)氏による「死霊祭祀のポリティクス——招魂と慰霊」と併せ読むことで祭祀をめぐる争点が整理される。


◆2:東京招魂社の機能


奈倉哲三『諷刺眼維新変革 民衆は天皇をどう見ていたか』
奈倉哲三(なぐら・てつぞう)氏の「招魂——戊辰戦争から靖国を考える」は、靖国神社の前身である「東京招魂社」の機能に焦点をあてる。要するに新政府軍と旧幕府軍が戦った内乱・戊辰戦争の死者を祀ることが急務であり、そのさい東京招魂社は、新政府軍の側に立った者だけを選別するという死者の選別を行う装置として機能しているのだ。奈倉氏は本稿において、資料から実際に祀られた「魂」の内訳の分類・整理を試みている。


「招かれざる魂たち」にもさまざまな種類がある。藩論統一のために犠牲になったものや旧幕府軍側であったものに加えて、新政府軍側でありながら招かれざる魂もある、という内実をみてゆくと招/不招の分岐点(ロジック)が見えてくる。要は天皇のために戦って死んだか否かというわけだが、幕末期の天皇の権威は果たしてそれほど浸透していたか、と奈倉氏は幕末における天皇を諷刺した錦絵を紹介しながら疑問を提示する。


◆3:魂の選別をめぐって


死者の魂にどのような線引きをするか(意味づけを施すか)、という問題はそのまま現在まで続く靖国問題の一部をなしている。


太平洋戦争・大東亜戦争の「英霊」として、靖国に祀られることをよろこぶか苦痛に思うかは、遺族の置かれた個別の状況に拠るものだが、靖国はそうした遺族の意向とは無縁に独自のロジックで戦死者を合祀する。菱木政晴(ひしき・まさはる)氏の靖国をめぐる状況は変ったか」は、2005年のはじめに判決があった沖縄靖国訴訟や、台湾原住民による訴訟などをとりあげながらそうした状況を批判的に検討している。沖縄については金城実(きんじょう・みのる)氏の「沖縄から見える戦争前夜」に、台湾原住民については丸川哲史(まるかわ・てつし)氏の靖国神社で歌われなかった歌は——台湾原住民訪日団「返せ!我が祖霊」行動の一日」にそれぞれ詳しい。


また、屋嘉比収(やかび・おさむ)氏の「追悼する地域の意思——沖縄から」に紹介されている沖縄戦戦没者の名前を刻んだ記念碑「平和の礎」は、「沖縄戦で亡くなった戦没者を、敵・味方に関係なく、国籍を問わず、軍人・民間人の区別なく、すべての人々を刻銘する理念が謳われている」というもので、靖国的な論理とは異なる祀りの可能性を示すものだ。山本唯人(やまもと・ただひと)氏の「「分断の政治」を超えて——東京大空襲・慰霊堂・靖国岩田重則(いわた・しげのり)氏の「戦死者多重祭祀論」もそれぞれ祭祀のあり方に再考をせまる内容。


◆4:思考しえるもの/しえないもの


小泉義之(こいずみ・よしゆき)氏の「贖罪の時」は、死者をめぐる扱いについて、思考できるものと思考しえないものの区別がエエ加減だからややこしくおかしな問題が出てくるのだ(大意)という理路を批判している。

結局のところ、何が問題なのか。また、何が問題にされるべきなのか。死者とは、かつて生きていて、あるときに死んで、いまでは生きても死んでもいない人間のことである。では、われわれ生者が、死者のことを称讃したり非難したりするとき、何を問題にしているのか。簡単なことだ。かつて生きていた過去に、その人が為したことを問題にしているのである。それしか問題にすることはできないし、それしか問題にするべきではないのだ。


このように考えてくると、英霊を祀る欲望は、死者を亡霊化する似非宗教的な所業であるだけでなく、その人が生きていたときに為したことを真正面から擁護することを回避する卑劣極まりない所業であるということが見えてくる。

小泉義之「贖罪の時」より)


◆5:遊就館はなにを展示してきたか?


坪内祐三『靖国』
個人的には、文化資源学の木下直之(きのした・なおゆき)氏が、靖国に併設されている「遊就館」の展示の変遷を追った遊就館——「靖国」のミュージアム」を興味深く読んだ。遊就館を論じたものとしては、同館の花嫁人形の来歴を考察したE.シャッツナイダー(Ellen Schattschneider)氏の「複製芸術時代における奉納品——花嫁人形と靖国神社におけるファシスト美学の謎」(高橋原訳)も収載されている。


靖国問題については(言うまでもなく)、さまざまな立場からさまざまな書物が書かれている。そのうちそうした諸作品についてまとめてマッピング/コメントしてみたい。




◆6:ニューヨークのアナキズムマルクス主義


連載記事は二本。高祖岩三郎(こうそ・いわさぶろう)氏の「ニューヨーク烈伝 第九回 〔アナ〕〔ボル〕と、そして」は、ニューヨークを中心とする近代労働運動の歴史を固有名のレヴェルでたどるもの。


末尾で触れられている Partisan Review 誌の逸話もおもしろい。1938年に、トロツキーの協力のもと、ディエゴ・リヴェラとブルトンが同誌に"Toward a Free Revolutionary Art"というマニフェストを寄せているというのだが、ちょうどそのあたりのブルトントロツキーについては、先日拙サイト「哲学の劇場」に目次をアップした雑誌『季刊パイデイア』第6号「特集=シュールレアリスムと革命」(竹内書店、1969/08)に関連資料が出ている。余談中の余談だが、ディエゴ・リヴェラとフリーダ・カーロトロツキーの三角関係(?)については、ジュリー・テイモア監督の映画『フリーダ』(Frida)(2002〔日本公開は2003年〕)にも描かれていた。


⇒哲学の劇場 > 資料集 > 『季刊パイデイア』第06号
 http://www.logico-philosophicus.net/resource/paideia/06.htm


⇒『フリーダ』公式サイト
 http://www.frida.jp/


◆7:死の光


マレーヴィチ『零の形態 スプレマチズム芸術論集』(叢書・二十世紀ロシア文化史再考)
飯島洋(いいじま・ひろし)氏の連載は「建築と破壊 第10回 絵画という亡霊1」。ニエプスのヘリオグラフィー(世界最初の写真)から説き起こし、8時間をかけて金属板に風景を焼き付ける過程をイメージの生成ではなくイメージの消滅ととらえ、光が死(消滅)とわかちがたく結びつく原爆への連想へと議論をつなぐ。さらに爆撃前後の都市のイメージを、マレーヴィチシュプレマティスムの作品「白地の上の白い正方形」(1918)、「白地の上の黒い正方形」(1915)のイメージへと重ねてゆく……。妥当性はともかくとして、その連想自体はおもしろい論考。


なのだが、なぜかニエプス(1765-1833)の生年が1865(正しくは1765)年であり、彼が兄へ出した手紙の日付が1916(正しくは1816)年や1926(1826)年、ダゲールがダゲレオタイプを発明した年が1939(1839)年というふうに、年号が数度にわたって100年ずつズレている。


⇒作品メモランダム > 2005/05/06 > ものを見る眼を洗いなおす
 http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050506
 「写真はものの見方をどのように変えてきたか」展/黎明期の写真について


青土社 > 『現代思想』2005年8月号
 http://www.seidosha.co.jp/siso/200508/


⇒作品メモランダム > 2005/07/25 > 『ユリイカ』2005年8月号
 http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050725
 『ユリイカ』2005年8月号についてはこちら