長嶋康郎『ニコニコ通信』(acetate003、編集出版組織体アセテート、2005/08)


この面白さをいったいどうお伝えすればよいのか困り果てている。


映画なら筋書きや見所を、日頃紹介している類の本ならテーマや立論の仕方など、芸術なら解釈や特異さを述べれば、それらの作品に触れて感じたおもしろさの一端を充分とはいえないまでも伝えられるように思う。


しかし、このすこぶる愉快な書物の面白さとなると、私ごときではうまく述べられる気がしない。なぜか。その理由ならいくらでも書ける気がする。


まず基本的なことから書こう。この『ニコニコ通信』という書物は、古道具屋ニコニコ堂の主人・長嶋康郎(ながしま・やすを, 1947- )氏が発行する「ニコニコ通信」の最新号である。より詳しくは、第二〇号である。ところで第二〇号は、14ページ。本は全部274ページある。残りのページには何が載っているのかというと、バックナンバーを中心とした「ニコニコ通信二〇号記念特別大ふろく」である。そう、本体よりふろくのほうが大きいのだ。


この「ニコニコ通信」、そもそもこの書物が刊行されるまで、どうやって入手したらよいのかもわからない代物だった。本書に寄せられた作家・長嶋有(ながしま・ゆう, 1972- )氏の「ニコニコ讃」にこんなことが書いてあるのを見つけた。

ニコニコ通信を誰に送るか送らないか、本誌にもわざわざ書いてあるけど、あれよりもっと厳密なものが父にはあるらしい。ある夏の山小屋で、送っている人をわざわざリストに書き出して「この人はもうやめておこうかナア」とかぶつぶつ言い出したのを覚えている。


書き手が読み手を選ぶんである。つまり、この書籍版を読む以外には、どんなに読みたいと思っても、書き手である長嶋さんが「進呈しよう」と言ってくれなければ読めないのであり、よし購読者になりおおせたとしても、上記のとおり、いつなんどき購読者リストからはずされてしまうのかもわからないのだ(すごいしくみだ!)。


さて、なぜこの本の面白さを説明するのがむつかしいのか、であった。


長嶋康郎『古道具ニコニコ堂です』(河出書房新社、2004/06)
もしこの本が古道具をテーマにした愉快なイラスト入りエッセイ集であったら、うまいオススメの仕方を思いつけると思う。しかしそういうわかりやすいものではない。じゃあ何が書いてあるのかといえば、著者の思いつくまま気の向くまま。日常の一こまがうつされていたり、昔の思い出があったり、名作漫画の解説(名作漫画の内容を言葉で語りきかせる)やら物故者について語る「死んだ人の話しシリーズ」があるかと思えば、七コマ漫画がすごいコマ割であらわれる。オススメ本、名曲、ことわざ、動物記、古新聞のコピー、綺譚、康郎伝……ああ、書きながらわけがわからなくなってくる。著者自身も第八号の「編集記」でこんな風に言っている。

ニコニコ通信の記事は、手から出まかせに書いていて、一回発行すると忘れてしまうので、シリーズものはすぐとぎれてしまうし、すぐ思いつくと新しいコーナーができてしまうし、前に書いたことを又書くし、それも、事実がかわったりすることもあるらしく、いいかげんだなあ。だいたい創刊号がだれも持ってないので、何だったかわからない。


ご本人にもわからないのである。これは持論に過ぎないが、人間相手の勝負ごとで最強は無我である、と思う。無我とは要するに、「つぎはああして、相手がこうきたらこうして」といった計算をしないことだ。他方で無我とは関係ない相手は、こちらの手を読もうと必死である。しかし、「手を読む」という対処が可能なのは、相手が「手」を計算している場合に限られる。ところで無我状態にある者は、自分でも手など考えていない。自分で計算していないものを他人に計算できるわけがない。話しがそれかかったが、言いたかったのは、ご本人にわからないものを他人にわかるわけがない、ということだ(もちろん事後的に後だしじゃんけんで理屈をつけることなら誰にでもできるし、ご本人にわからないことが他人にはわかる、ということも世の中にはあるのだから私もエエ加減なことを書いたものである)。


第二に、この本ばかりは言葉を引用して以ってそのおもしろさを伝える、という書物紹介の常套手段が通用しないのだ。なぜかといえば、「ニコニコ通信」は全編がこれ手書きでつくられている。文字は全部手書き。そのときどきで使っているペンにより文字の太さもちがったりする。レイアウトも自由自在で予想もしないところでふいと改行する。書き損じは■と塗りつぶされて、なにごともなかったように文章が続く。筆者の胸先次第でさまざまな大きさのフォントが使われており、一行に四行の割注が平気で挿入されたりする。文章とはきりはなせないイラスト、ふきだし、補足、注釈が入り乱れ、文法のつじつまや当て字だって全然意に介することはない。あ、この言葉はこっちにいれたほうがすわりがいいな、てなところではその言葉が丸でかこってあって、つつーっと別の場所へ矢印が引いてある(校正記号だ)。もしなにか長嶋さんを制約するものがあるとすれば、それはただひとつ紙の大きさだけであろう。


こういうものだからして、ここに引用してみてもはじまらない。言葉の意味は伝わっても、紙面の味わいはすっぽり抜け落ちてしまう。


第三に、なぜ見知らぬ人様の身辺雑記がこんなにも面白いのかが、読みながら自分でもうまく理解できなくて往生している。飼い犬が家出をしてしまって探し回ったエピソードなど、探せばあちこちのウェブログにも書き付けてありそうなものだ。しかし、管見では見知らぬ人の身辺雑記は、どこか他人の「子供の運動会ヴィデオ」や「結婚式の写真」を見せられることに似て、味気なく退屈な思いをすることが多いように思われる(お互い様なのだが)。しかし長嶋さんの文章は、そんな退屈さとは無縁だ。これはなぜなのか。まったくわけがわからない。


あ、こういうときの手があった。人の評判を参照すれば自分がうまくいえないことを言えるかも。というので、本書に寄せられた「ニコニコ通信」読者たちの言葉を読んでゆく。だめだ。みんな自在なたのしみを受け取っていて、自分が受け取ったニコニコと同じものはどれひとつとしてなかった。


そンなわけで、私には読めばたちどころに染みてくるこの愉悦について、語ることができないのである。てなことを気がつけば長々と書いてしまった。これまた我ながらわけがわならないことだけれど、本書からうけとったなにかがガソリンとなってこの文章が書かれたことだけはたしかだ。


中谷さんとアセテートのみなさん、本にしてくださってありがとう。


*なお、8月31日までの予約分(編集出版組織体・アセテートへの予約分)には予約特典の限定缶バッジが1ヶつきます。長嶋さんのイラストが刷り込まれた白いバッジです。もらったバッジのイラストが、本のどこから出てきたものかを探すのも一興です。


⇒ニコニコ堂
 http://homepage.mac.com/soranet/niconico/


⇒編集出版組織体・アセテート > 「ニコニコ通信」
 http://www.acetate-ed.net/bookdata/003/003.html


長嶋有公式サイト
 http://www.n-yu.com/


【追記】2005年08月29日


同書からの(ネタの)引用を禁欲していたのだけれど、ひとつだけ。

漫画のギオン(最近何とかというらしい)


アメリカ漫画がいつま
でもBOOMとかZZZ
とかいっているうちに
日本では、黒ぬりの車
から玉ジャリの庭に降り
たつ組長のクツの音を
さいとうたかを

「ザシャッ」
と表現したの
は六〇年代後
半だった。

(57ページ)




アセテートの話しをしたからといってそれにこだわる必要はないのだけれど、建築関連の新刊書を数点。