明治賢人研究会という会合で、魯庵「銀座と築地の憶出」(初出=大正15年7月「女性」所載)を読んでいる。


参集したメムバーが、一人一段落を音読しては、そのくだりを肴にああでもないこうでもないと論じ合う。音読というところが好い。ページ全体をぱっと写真のように読み取るのが速読なら、こちらは遅読である。黙読ならエエ加減にさァっと読み流すところもすべて音読するために飛ばされることがない。「同じ」場所でも自動車でビュンビュンかっとばすのと、ゆっくり散歩がてら歩くのとでは見える風景がちがってくる。文章をゆっくりと味わううえで、音読は有益な一手段であることだ、と改めて思う。


会合には平成の明治賢人とでもお呼びしたい師や、いったいぜんたい常日頃何を食べているとそのような教養が身につくのであろうかという方々が犇めきあっており、魯庵の数行から直接教えられることが大であることは言うまでもないけれど、そうした議論からさらに多くを教えられ甚だ愉快だ。


——という具合にして、このたびは「築地の居留地の憶出——少年時代の長田秋涛」と題したくだりを読んだ。そのなかに、長田秋涛について記したこんな文章があらわれる。

文学よりは社交で売出し、芸術よりはゴシップの製造で売れッ子となった長田秋涛も此のサンマーの稽古所入りをした一人であった。其の頃はマダズブお坊ちゃんで、恐らくサンマーのお弟子の最年少者であったろうが、其の頃から頭角を出した其の道の麒麟児であった。同じお弟子のT子という裁判官の令嬢と肝胆相照らしたとか調律が一致したとか、椅子を列べて膝の突きくらをしたとか、キスを投げてグッドバイをしたとか、我々女に縁の無い連中に盛んに吹立てた。其の頃から自己宣伝の上手な男だったから、ドコまで信じてイイか、或は全く根も葉も無い鼻唄であったか解らないが、秋涛はT子のTと自分の本名の忠一のCとを組合してモノグラムまで作って、手紙には始終此のモノグラムを署名していた。T子は若し存生ならモウ孫の二人や三人はある年配だが、秋涛の名なんぞはモウ忘れて了ってるだろう。

(『魯庵の明治』、講談社文芸文庫講談社、21-22ページ/強調は八雲)


ちなみにこの作品は、大正になってから明治の銀座や築地を回想したもので、当時の街並みはもちろんのこと店構えや評判、中の様子から人物評まで、魯庵の筆は実に細やかに事柄をひろいあげてゆく。それにしても、秋涛の少年時代にまつわるこの筆致はどうだろう。見たところ大概のことについては好いところを褒め、同時にダメなところを貶す、というふうにバランスのよい記述を見せる魯庵なのだが、こと秋涛については明らかに声がオクターヴ上がっている。


その様子は「肝胆相照らし」「調律が一致し」「膝の突きくらをし」「キスを投げてグッドバイをし」と、執拗に恋人たちの仲睦まじい様子を描写するにとどまらず、「我々女に縁の無い連中に盛んに吹立てた」と半ば冗談めかして恨み節を付け加えるのを忘れず、それでも気持ちがおさまらなかったのか、「モノグラムまで作っ」た顛末を紹介してますます二人の仲のよさを強調してみせたあとで、挙句、T子にしたってモウ秋涛のことなンぞ、忘れちまっただろう、と断定する始末。よほど秋涛のモテぶりがうらやましかったのか、己の非モテが不服であったのか——だなンて読む方の想像力をひどくかきたてるのである。


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