★マルセル・プルースト『失われた時を求めて1 第一篇 スワン家の方へI』(鈴木道彦訳、集英社文庫ヘリテージシリーズ、集英社、2006/03、ISBN:4087610209)
Marcel Proust, À la recherche du temps perdu
マルセル・プルースト(Marcel Proust, 1871-1922)による小説『失われた時を求めて』の鈴木道彦個人全訳の文庫化がはじまった。親本は1996年から2001年にかけて集英社から刊行された13巻本(11.5Kg)。今回の文庫も全13巻で、親本と対応している模様。訳者によると文庫化にあたって訳文をさらに彫琢しているとのこと。
またこの機会に、私はあらためて全体にわたりフランス語原文と照合して翻訳に手を加え、不備を正し、訳文を整えるとともに、訳注もすべて見直した。おそらくこのような全面的な改訳は、これが最後の機会になるだろう。その意味で、今回出版されるのは私の決定版と言えるものである。
(「文庫版の出版にあたって」より)
読むほうもこれだけの長篇になると、つい「死ぬるまでにあと何回読む機会があるだろうか」などと考えてしまう。それはともかく。
プルーストの筆がとらえる意識(と無意識)のきめの細かさはいったいなんなのか。この小説を読んだあとでは、しばらくのあいだ、たいていの一人称で書かれた小説は、ものたりないような気分になる*1。
たとえば、「長いあいだ、私は早く寝るのだった。(Longtemps, je me suis couché de bonne heure.)」という書き出しではじまる第一篇第一部「コンブレー」の冒頭は、巻頭から(今回の邦訳文庫版で)100ページ近くを、語り手の「私」が幼少時代に感じていた母への思慕を回想してみせることに費やされている。もっともこの回想は、その直後、本人によって「意志的な記憶、知性の記憶によって与えられたもの(la mémoire volontaire, lamémoire de l'intelligence)」にすぎないと自己分析が加えられるわけだが。つまり、そのような記憶の回想とは——
ひと口に言えば、常に同じ時刻に、周囲にあったと思われるいっさいのものから引き離されて、それだけが闇から浮き出ている舞台装置(中略)、必要最低限度の舞台装置である*2。
(邦訳、p.106)
私たちが気に入っていたり、嫌なのに忘れがたい記憶を回想するとき、そうした記憶はこんなふうに、必要最低限のものだけを集めた舞台のようにお膳立てられているのではないか、という次第。プルーストはそのような記憶を「意志的な記憶」と名づけている。この冒頭は、言ってみれば残りの数千ページの枕噺。あとのページには何が書かれるかといえば、それが「無意志的な記憶」の回想である。無意志的な記憶とは、意志的な記憶とは異なり、自分にとっては「不意に」とか「はからずも」、あるいは「ゆくりなく」という仕方で訪れる記憶のこと。
過去を思い出そうとつとめるのは無駄骨であり、知性のいっさいの努力は空しい。過去は知性の領域外の、知性の手の届かないところで、たとえば予想もしなかった品物のなかに(この品物の与える感覚のなかに)潜んでいる。私たちが生きているうちにこの品物に出会うか出会わないか、それは偶然によるのである。*3
(邦訳、pp.107-108)
目にはいった光景、道で不意にかいだ匂い、街角で不意に聞いた音、いま立っている場所の足下の感じ、などなど、そうした思いがけない事物との出合いから意図しない記憶が甦るということは日常茶飯事で、気にとまらないほどだ。たとえばかつて愛聴した音楽をひさしぶりに耳にしたとき、音楽についての記憶とともに、それを愛聴した日々の感じや記憶も甦る、ということがある。
そうした記憶の機微をとらえてみせたのが、よく知られた〈紅茶にひたしたプチット・マドレーヌの味〉。ある日、母の勧めと「私」の気まぐれから口にすることになったこのひとさじのお茶から、ついさきほどまで思い出すこともなくなっていた記憶が、つぎつぎと展開してゆく。篇を追うごとに重なりあいときに変奏され、スキップしながら進みゆく膨大な記憶が、最終第七篇「見出された時」に至って、再び捉え返されるそのときを思うと、はやくそこに至りたいという気持ちと、できるだけ先延ばしにしたいという気持ちとがない交ぜになった、要するに達してしまうことで空しくなる欲求を満たしたいけど満たしたくないという思いに駆られ、読み進みながらもつい気に染む数ページに何度も立ち戻る。現在でもなければ過去でもない、現在であると同時に過去であるような記憶の時間に浸るこの贅沢な愉しみのを存分に味わうためにも、この作品がいっそう読みやすく手にしやすい形で再登場したいま、見過ごす手はない。
全13分冊のうち、今回は最初の2巻が既刊。第1巻には松浦寿輝氏のエッセイ、第2巻には工藤庸子氏のエッセイが併録されている。右に書影を掲げたのは、訳者・鈴木道彦氏による案内書。なお、日本語で読めるプルースト作品には、『プルースト全集』(全18巻+別巻1、筑摩書房、-1999)があり、『失われた時を求めて』のほかに、ラスキン論や「ジャン・サントゥイユ」、「楽しみと日々」、批評、書簡を読むことができる。より手軽に読めるものとしては、ちくま学芸文庫から出ている「文学篇」と「芸術篇」の2冊の評論集『プルースト評論選』(全2巻、保苅瑞穂篇訳、ちくま学芸文庫、筑摩書房、2002、ISBN:4480037519)がある(それにしてもamazon.co.jpのマーケットプレイスで8000円はいかがなものか)。かつては『楽しみと日々』も福武文庫で出ていた。プルースト論は日本語で読めるものだけでも死ぬほど出ているので機会を改めて概覧してみたい。
⇒集英社 > 『失われた時を求めて』単行本版
http://www.shueisha.co.jp/proust/top.html
⇒Gallica > Proust(仏語)
http://gallica.bnf.fr/proust/
Gallicaのプルースト特集ページ。年表、手稿ほか。
⇒À la recherche du Temps Perdu(英語)
http://www.tempsperdu.com/
『失われた時を求めて』に焦点をあてたサイト。
⇒Project Gutenberg > Proust(英語・仏語)
http://www.gutenberg.org/browse/authors/p#a987
『失われた時を求めて』の仏語テキスト。
⇒wikipedia > Proust(仏語)
http://fr.wikipedia.org/wiki/Marcel_Proust
フランス語版ウィキペディアのプルーストの項目。
⇒wikipedia > Proust(英語)
http://en.wikipedia.org/wiki/Marcel_Proust
英語版ウィキペディアのプルーストの項目。
⇒人文書院 > 鈴木道彦最終講義「自伝的文学」
http://www.jimbunshoin.co.jp/rmj/jiden.htm
2000年01月14日、獨協大学で行われた最終講義。
*1:『失われた時を求めて』は完全に一人称で貫かれているわけではないけれども。
*2:参考までにProject Gutenbergに掲載されているフランス語原文と、井上究一郎訳の該当箇所を掲げておきたい。"en un mot, toujours vu à la même heure, isolè de tout ce qu'il pouvait y avoir autour, se détachant seul sur l'obscurité, le décor strictement nécessaire(...)"/「ひとことでいえば舞台装置、いつもおなじ時刻の場面が見え、周囲にあったはずのすべてのものから孤立し、それだけ暗闇に浮きだしていた舞台装置(……)」井上究一郎訳、ちくま文庫、第1巻、p.72
*3:"C'est peine perdue que nous cherchions à l'évoquer, tous les efforts de notre intelligence sont inutiles. Il est caché hors de son domaine et de sa portée, en quelque objet matériel (en la sensation que nous donnerait cet objet matériel), que nous ne soupçonnons pas. Cet objet, il dépend du hasard que nous le rencontrions avant de mourir, ou que nous ne le rencontrions pas."/「過去を喚起しようとつとめるのは空しい労力であり、われわれの理知のあらゆる努力はむだである。過去は理知の領域のそと、その力のおよばないところで、何か思いがけない物質のなかに(そんな物質があたえてくれるであろう感覚のなかに)かくされている。その物質に、われわれが死ぬよりまえに出会うか、または出会わないかは、偶然によるのである。」井上究一郎訳、ちくま文庫、第1巻、p.74