「窓」から見える永劫回帰


どこかの窓から外を見ている。よく晴れた日だ。


目の前には草地が広がり左手に木の枝が風にそよいでいる。その向こう、水平方向に道が延びている。その奥にはたぶん河川があって、さらにその先の対岸に道が、やはり水平に走る。その奥には木々と住宅が並ぶ。ベランダに衣類が干されている。うららかな陽光と時折吹き渡る風の様子が草の動きで感知される。


なんということもない風景。建物の窓から見えるのどかな昼下がりの景色。


窓の枠が画面のちょうど真ん中辺りを縦に通っているおかげで、自分(カメラ)は家の中にいるのだと分かる。向かって左側はガラス越しなのか、うっすらと反射した何かが映り込んで少し色がくすんでいる。左側に比べて光が明るく感じられる右側は、開け放たれているのかもしれない。


それにしても、ここはどこなのか。そして、いつのことなのか。自分は誰なのか。私はなんとなく、記憶喪失の刑事となって、かつて知っていた土地で、今日がいつなのかも知らないまま、ひたすら張り込みをしている気分になった。あんパンと牛乳があればありがたいのだが。


カメラは微動だにしない。人間の眼とはよくできたもので、意識をしなくても、変化に注意が向くものだ。ただ、草木が揺れるので、かろうじて時間が流れていることが分かる。そこへ人が通りがかる。ジョギングをする人、自転車をこぐ人、犬を散歩する人、飛び去り飛び来る鳥たち、蝶々。ああ、時間が流れている。しかし、どうやら時間の流れは少し緩慢なようだ。


ストローブとユイレの映画を連想する。カメラが森の中をじっと映したまま動かない。実際にはどうか分からないけれど、体感では、そう、何分も。アテネフランセくんだりまでわざわざこの映画を観に足を運ぶ観客も、少しずつ寝入ってしまう。無理もない。当たり前の意味ではなんの「変化」もなく、ただカメラが風景を映し続けているだけだから。


この窓から見える光景(という言葉をやむを得ず使っているけれど、本当はしっくり来ていない。ここに見えているものをなんと呼んだらよいのか)にも、そういう意味ではほとんど「変化」はない。ましてや、映画のように構成された物語や演出があるわけではない。ただ本当に、カメラを窓際に据えて、そこに映ったものを、たぶん少し再生速度を落として再生している。


なにも起こらず詰まらない。そう思う向きもあるかもしれない。私たちは、映画の誕生以来(いや、それ以前のマジックランタンの時代からと言うべきだろうか)、コンピュータでリアルタイムに生成されるゲームの動画まで、目を驚かせ楽しませる映像にあまりにも馴らされてしまっている。「いいか、冒頭1分で観客の心をがっちり掴め!」


それにしても、ここはどこなのか。そして、いつのことなのか。自分は誰なのか。私はなんとなく、やることもやりたいこともなく、もう昼もだいぶ過ぎた今頃になって蒲団から這いだし、無為に(しかし無為とはなんだ?)夕闇が迫るのを待っている大学生となって、煙草をくわえながらアパートの窓から外を眺めている気分になった。あの頃は、かっこいい祖母の真似をしてゴールデンバットをふかしていたのだっけ。


しかし、本当に何も起こっていないのか。じっと眺めていると、なにかがおかしい。自転車が後ろに向かって走り始める。人が後ろへ向かってランニングしている。犬は普通そんな具合に後ろへ向かって走らない。気がつくと、時間が逆転していた。


映画の黎明期、奇術師のメリエスは、すでにフィルムの逆回しを使って観客を喜ばせていた。ずっと後になってヴィデオデッキが普及して、私たちはそうしたければ好きなだけ映像を逆再生できるようになった。そういう意味では、映像の逆再生とは馴染みのある出来事かもしれない。


しかしそれでもなお、目の前の映像から奇妙な感覚がひたひたと迫ってくる。


たしかに人間や犬は、逆転した時間の中で、後ろ向きに走っている。かれらの時間は見るからに正しい向きとは反対に巻き戻されていることが分かる。だがどうだろう。風に揺れる草木の様子は。画面から人がいなくなる。草木は相変わらず揺れている。その揺れ方は、時間を遡るように逆転しているはずなのに、そうは見えない。


それにしても、ここはどこなのか。そして、いつのことなのか。自分は誰なのか。私はなんとなく、この世の終わりが近づくことを知っている数少ない人間の1人として、のどかな最後の日をじっくりと味わっている科学者となって、完成させられなかったタイムマシンに思いを馳せている気分になった。スーパーマンよ、地球を逆回転させるだけでは時間は戻らないぞ。


遠くを飛ぶ鳥も、本来とは逆に飛び戻っているはずなのに、よく注意していなければ、それが正常な時間の流れの映像であると言われても、気づかないかもしれない。逆再生であると思って見れば、かろうじて鳥の形で前後が見分けられる程度だ。


草の間を飛び回る蝶々もしかり。こうした生き物の振る舞いを日ごろからよく観察している人であれば、あるいはいま映像がどちらの向きに向かって流れているのかを言い当てられるかもしれない。だが、そうしたことでもなければ、時間が逆転しているはずの映像は、普通に再生されているのとほとんど見分けがつかない。


私は目を凝らした。ますます混乱してくる。


やがて再び、映像の流れる時間が逆転を始めたようだ。人が、正しい向きで走ったり、歩いている。自転車も前に向かって進んでいる。しかし、いつ逆転が生じたのか。それが分からない。草木は、時間の流れる向きなどどこ吹く風と、変わらず揺れている。まるで人間や犬だけが、時間の中をある方向へ進んでいるような気がしてくる。


もはや、ここがどこで、それがいつのことなのか、自分が誰なのか、どうでもよくなってきた。というよりも、時間というものが分からなくなってきた。なぜ人間は死ぬのだろうか。この世界では時間は振り子のように往復しているというのに。


そう、徐々にこの映像を律している規則が見えてきた。この映像は、時刻1から時刻2に向かって流れ、時刻2に達すると、今度は時刻1へ向かって逆転を始める。時刻1へ到達すると、再び時刻2へ向かう……。この、窓から見た風景は、振り子のように永久に揺れている。映像の中ではけっして沈まない太陽の代わりに明滅する照明もまた。



もうかれこれ2往復も見たのだから、その場を離れてもよかった。しかし、この一見なんの変哲もなさそうな景色を眺めることが止められなくなっていた。


画面の手前を埋める下草の隅々に目を向けた。そこには時間の向きを示すものがないだろうか。樹木の枝葉の動きを凝視しながら、脳裏でコンピュータグラフィックスでこの動きを作るとしたらどうすればよいか、と考えるでもなく考える。そこには時間の向きの痕跡はないだろうか。蝶々の飛び方は、にわか昆虫観察者の目に、やはり時間の向きを教える手がかりをくれないものだろうか……


時間の反転が生じるのは、いつでも画面に時間の向きをはっきりと示すもの(人間や犬)がいない時だった。3往復目で、私は一瞬、それでも時間が反転する瞬間を知覚できたような気がした。しかし、4往復目でもう一度確かめたいと念じたけれど、徒労に終わった。


さまざまな事情が許せば、なおもその映像を見続けていたかもしれない。私がそうして見ている間にも、何人かの人がその映像の前に立ち、去っていった。「ねえ、これはたいそう奇妙な映像だと思いませんか?」と誰かに話したいような気もしたけれど、怪訝な顔をされたら、うまく説明できる自信もなかった。けれども、この映像によって、ものを見る目が少しずらされてしまったのは間違いのないことに思われた。


ギャラリーを後にして、表参道から渋谷まで歩き、バスに乗るつもりでいたのに、気づけば代官山を抜けて、恵比寿まで歩いていた。


展示:藤本なほ子「部屋」
会期:2012年10月29日[月]-11月3日[土]
会場:表参道画廊
照明:中山奈美


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twitter > 藤本なほ子
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⇒作品メモランダム > 筆跡に宿るもの
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