ペ・スア『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』(斎藤真理子訳、白水社)紹介への補足

第4回「みんなのつぶやき文学賞」結果発表会の「海外篇」で、ペ・スア『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』(斎藤真理子訳、エクス・リブリス、白水社、2023)の紹介を担当しました。

原書の書誌は下記の通りです。

배수아『멀리 있다 우루는 늦을 것이다』(워크룸프레스〔workroom〕、2019)[版元]

この本は全体が3つの部分からなり、各部では「ウル」という名の女性が登場し、その行動が描かれています。それらのウルが同一人物なのか、たまさか同じ名前なのかは判然としません(おまけに「ウル」という名の犬まで登場します)。

文章は、私たちが慣れ親しんでいる言葉で書かれており、一つひとつの語彙や表現にはどこにも難しいところがないにもかかわらず、読んだあとで「なにを読んだのか教えてください」と言われると、心許なくおぼつかず、おずおずと「こういう場面があって……それからこんなふうになって……」と述べてみることはできるものの、そのように述べたのでは、自分が読んで感じたこととはまるで釣り合わないような気がする、そんな文章なのです。夢で見たことを目覚めたあとで言葉にしようとするようなもどかしさと言いましょうか。

だからといって難解で読み進めるのに苦労するというのではなく、むしろ次になにが現れるのだろうという期待に導かれながら先を読みたくなる、そんな文章でもあります。

一例をお示ししましょう。結果発表会で時間があれば(といっても、予定されていた時間は2分なのですが!)朗読しようと思っていた箇所にこんなくだりがあります。

コーヒーを飲み終えてからやっとコートを脱いだ女は、食器棚のコーヒーカップとグラスを数え、これという理由もなく寝室の引き出しを一つ一つ開けてみてから、ふと思い出したようにいちばん下の段からきれいにアイロンをかけてきちんとたたまれた木綿の布巾を何枚か取り出して台所に持っていく。台所と玄関の間を通る女の姿が壁にかかった狭い鏡に映って消える。本棚の前を通りがかって写真集と旅行案内書を手に取り、適当なページを開き、立ったままでちょっと読み、もう一度浴室に入って手を洗い、無意味に髪の毛をかきあげ、何かを忘れた人のように、自分が忘れたことを思い出そうとする無意識の身振りをしてからふと、何らかの決意をしたような姿勢でストッキングを脱ぎ、素足になって、大股で床を横切り、歩きはじめる。入口から窓に向かって歩き、また体をぐるりと回転させて、窓から入口に向かって何度も歩く。室内は大股で五、六歩歩けば向こうの端についてしまうほど狭かったが、特定の感情がこもった身振りで歩くという行為そのものが女を次第に陶酔させる。そしていつしか女の体は徐々に、自分にも聞こえないなんらかの音楽に乗っているかのように動き始める。歩くという動作を通して女は徐々に、自分でも意識できない一つの表現に、高貴な手段になっていく。女の中の何かが高潮し上昇する。女は自分を、たった今霊魂が宿った瞬間のミルク色の蝋燭のように感じる。

(pp. 75-76)

このままずっと引用を続けたくなるのですが、この本の随所に、こんなふうに躍りの気配が現れます。

斎藤真理子さんの翻訳は、声に出して読んだときの音の調子にまで神経が行き渡っていて、そのリズムもまた、読み進めたくなる動力になっています。

結果発表会で朗読したのは次のような一節でした。

自分の書くものが何なのか、ウルには依然として全くわからなかった。書いている文章のすぐ次の文章が何になるかウルにはわからず、もっといえば単語一つ、スペル一つさえあらかじめわかっていない状態で、ウルは取り憑かれたように素早く文を書いていた。コップの縁に蛾が飛んできてとまった。そして、ウルの瞳のそばを飛び回った。ウルのまぶたに灰色の鱗粉が落ちた。しかしウルは蛾を見なかった。ウルは遠くにいたからだ。ただ遠くにだけ、ウルはいた。もしもいつかこの文が完成するなら、ウルはこれを遠くで書いたといえるだろう。遠くで、自分自身を先取りして。文章を書いていてふと立ち上がり、台所や寝室、庭、階段をゆっくり歩き回ることもあった。

(p. 169)

これは、文章を書くウルのことであるとともに、この文章に触れた読者の体験でもあろうかと思われます。

私は一読して以来、すっかり気にいってしまいました。ペ・スアさんの他の作品も翻訳されるのを心待ちにしながら、原語や各言語の翻訳版を集め読んでみようと思っているところです。

ところで、結果発表会で同書を紹介した際、少しだけクリス・マルケルの映画に触れました。言葉が足りていないので、ここでちょっと補足してみます。

『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』の巻頭にエピグラフが置かれています。それはこんな文章です。

最初の映像は一九六五年にアイスランドのある道で撮った三人の子供たちだ、と彼は手紙に書いてきた。これは自分にとって幸せのイメージで、だから他の映像とつないで映画にしてみようと思ったが、まだ成功していないと。だがいつの日か、この映像が冒頭に単独で登場し、その後しばらく真っ暗な画面だけが続く、そんな導入部の映画を作りたいと。

 もしも人々がこの映像の中に幸せを見出せなかったとしても、暗闇だけは充分に見られるように。

――クリス・マルケル『サン・ソレイユ』

このエピグラフは、末尾に示されているように、クリス・マルケル監督の映画『サン・ソレイユ』(1982)からの引用です。

『サン・ソレイユ』を観たことがある方は思い出すかもしれません。これは映画の冒頭、真っ暗な画面とともにナレーターによって読み上げられる文章でした。

「最初の映像は一九六五年にアイスランドのある道で撮った三人の子供たちだ、と彼は手紙に書いてきた。」という冒頭の一文に続いて数秒の間、上のような3人の子供たちが歩く様子が映されます。

再び画面は暗転し、先ほどお目にかけたように、ナレーションはこう続きます(この間、もう一つのカットが入りますがここでは省略しましょう)。

これは自分にとって幸せのイメージで、だから他の映像とつないで映画にしてみようと思ったが、まだ成功していないと。だがいつの日か、この映像が冒頭に単独で登場し、その後しばらく真っ暗な画面だけが続く、そんな導入部の映画を作りたいと。

この映画は、世界のあちこちを旅している写真家から届いた手紙を、ある女性が朗読するというかたちをとっています。ここでナレーターが述べているのは、その写真家から届いた手紙というわけでしょう。そして、『サン・ソレイユ』という映画は、その手紙に記された通りに、3人の子供たちの映像から始まって、さまざまな場所の映像がつなげられてゆきます。

「みんなのつぶやき文学賞」の結果発表会では、『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』という文章は、ひょっとしたらこの『サン・ソレイユ』の冒頭を引き取って、別のヴァージョンとして書かれたものではないかという想像を述べました。

「三人の子供たち」に、三人の「ウル」が対応するといえば安直かもしれませんが、彼女たちはそれぞれどうやら旅と光と映画に無縁ではないようで、あながち突飛な空想ではないかもしれないと思ったりもするのでした。

ここでお伝えしたかったのは以上のことです。以下はさらに蛇足の蛇足。

『サン・ソレイユ』という映画には、1981年の東京の風景がさまざまに映されていて、当時を知る人には懐かしく感じられるかもしれません。

その一つに、ゲームセンターの風景があります。場所は分かりませんが、モグラ叩きに興じる男性とそれを眺める女性の姿や、いまではあまり見かけなくなったテーブル形筐体のアーケードゲームなども見えます。

例えば、下に引用する場面でプレイされているのは、おそらく『ムーンクレスタ』(日本物産、1980)です。その2年前にタイトーが発売した『スペースインベーダー』(1978)が大ヒットして、さまざまな類似作品が派生していきますが、この『ムーンクレスタ』もその一つです。

このシューティングゲームは、自機のドッキング・システムを導入した画期的なものでした。複数の自機をドッキングさせることで同時に射出できる弾数が増えるので強くなる代わりに機体が大きくなる分、敵の弾を避けづらくなるという、優れたシステムです。と、この説明では不十分なのですが、話し出すと長くなるのでここではこのくらいにしておきましょう。

お伝えしたかったのは、『サン・ソレイユ』という映画に封じ込められた1980年代初めの東京の様子のなかに、当時のゲームセンターも含まれていましたよ、ということでした。

『サン・ソレイユ』は、ネットで探すと動画がアップロードされているのを見かけられるかもしれません。ソフトとしては、『サン・ソレイユ』のBlu-ray版(『北京の日曜日』(1956)を特別収録)、『レベル5』(1996)、『シベリアからの手紙/ある闘いの記述』(1958/1960)のDVDを含む『クリス・マルケル作品集』シネマクガフィン/紀伊國屋書店、KKBS-157、2020/06)というセットが販売されています。

『サン・ソレイユ』には、フランス語版と英語版があるようで、私が知る範囲では冒頭に置かれたエピグラフが違っています。フランス語版ではラシーヌからの引用だったところを、英語版の製作に際してT. S. エリオットからの引用に差し替えたのだそうです。

クリス・マルケルの『ラ・ジュテ』は、少し前にデジタル修復版Blu-rayがKADOKAWAから発売されておりましたね(DAXA-5279、2017/12)。(発売時に手に入れて見たのでしたが、ディスクはどこへ紛れたのやら見当たりません)

 

ついでのついでながら、『サン・ソレイユ(Sans Soleil)』というタイトルは、19世紀ロシアの作曲家、モデスト・ムソルグスキー(1839-1881)の「日の光もなく」(Без солнца、1874)に由来するようで、作中でも流れています。『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』でも、2人目のウルがこの曲を聴く場面が描かれています。

www.hakusuisha.co.jp