★上野一郎編『映画講座 第2巻 映画芸術の理論』三笠書房、1953/04)#0358


三笠書房から出ていた『映画講座』(全4巻)の第2巻は、「映画芸術の理論」と題して、1950年代の時点から世界の映画理論を概観している。


二部構成で、第一部は「世界の映画理論」、第二部は「映画芸術の各相」。「世界の映画理論」といってもこの場合の「世界」とは、「ソヴエト」「フランス」「ドイツ」「英米」「日本」のこと。執筆者名とともに構成を記しておきたい。

★第一部 世界の映画理論
・馬上義太郎「ソヴエトの映画理論」
・岡田真吉「フランスの映画理論」
・佐々木能理男「ドイツの映画理論」
・和田矩衛「英米の映画理論」
・清水晶「日本の映画理論」


★第二部 映画芸術の各相
牛原虚彦「演出」
・尾崎宏次「演技」
・持田米彦「撮影」
・松山崇「映画美術」
・津川主一「映画音楽」
・津村秀夫「劇映画」
野口久光「漫画映画」
・大塚恭一「記録映画」
・石本統吉「科学映画」
・登川直樹「映画批評」


★附
・「映画重要文献目録」


どの項目も50年以上過去の「現在」に書かれたというだけで十分に興味深いものだが、ここでは登川直樹(とがわ・なおき, 1917- )氏による「映画批評」の項目を見てみよう。わずか11ページの短い文章の中で、著者は批評の種類を整理したうえで批評の効果について考察している。


登川氏は、二つの軸で批評を整理する。

・印象批評/客観批評
・技術批評/内容批評


作品によって自己を語るのが印象批評なら、自己によって作品を語るのが客観批評。もっともこれは便宜的な分類であって、実際にはきれいにどちらにわけられるというものではない。どれだけ客観的たろうとしても、主観が刻印されることをまぬかれないとは筆者も述べているとおりだ。


「畏れなさい」
印象批評では、上記のような構造上、作品を通して語られる「私」に関心を持てないとおもしろくない。対談ゴダールストローブ=ユイレの新しさ」浅田彰蓮實重彦『新潮』2005年5月号、新潮社、所収)の中で、蓮實重彦氏は、金井美恵子氏が「一冊の本」に寄せた文章において或る作品に期待が外れた旨を書いていることに対して苦言を呈している。曰く、

「期待が外れる」などという個人的なことは何も活字にしなくとも、ネットの井戸端会議でやればよろしい(笑い)


と。



AさんがXという作品に対して期待はずれだったと述べるとき、その「期待」の内容に関心を持てるのはAさんの知人かファン、もしくは、Xという作品について人がなにを期待するのかを知りたい人だろう。前者は内輪の話で、後者はマーケッターの関心ではないか。


⇒作品メモランダム > 2005/04/08 > 『新潮』
 http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050408/p4


もちろん、印象批評はよろしくないという話ではない。その文章が提示される文脈や受け取り手との関係の問題である。とはいえ学術書などでも、私語りがはいってくる本がある。たとえば科学史の本を読んでいるはずなのに気がつくと著者の私語り(海外留学時代に世話になった何々先生が……云々)が前景化していたりして苦笑してしまう。


この件に関しては、登川氏が文中に引いている伊丹万作(いたみ・まんさく, 1900-1946)の言葉をいつも念頭に置いておけばよいだろう。


「赤西蠣太」は観ましたかな?

「私の考えでは、最後のギリギリのところまで、批評の魅力として残るものは、結局その評者の偏見――言いかえるならば個人差というものであろうと思う。もう一つ別の言葉でいえば『独断』といつてもよい。実際、秀れた批評には必ず適度のそして爽快な独断が含まれている。……しかし、だからと言って批評家自身が意識して偏見や独断を発揮することに大童になつた場合には、これは恐らく救われないことになるだろう。批評家自身はあくまで偏見を殺し、公正を期することだけを考えていればよいので、そのようにしていても、偏見や個人差というものは、水の漏れるように必ず出てくるものなのである」

(同書、186-187ページ)


さて、技術批評/内容批評のほうはどうかというと、前者は表現技法・技術にまつわる批評であり、後者はシナリオの内容についての批評のことだ。これは両方押さえるにこしたことはない点だろう。


昨今の映画学界隈では映画批評の実践がどのように行われているのか、門外漢には判然としないのだけれど、上記の四つの手法が基礎的な批評手法だとしたら、そこにどのような解釈フィルターをかけるかでいろいろなヴァリエーションが出てくるという次第ではなかろうか。たとえば、Xという作品をラカン精神分析で観るとか、ジェンダーの観点から斬るとか、ポストコロニアル脱構築するとか(以上は空想)。つまり、これは問題意識のおき方であり、内容をどう解釈するかの問題である。映画を構成する音と光という要素にこだわらずそこに表現される内容のみに注目するならば、文学の批評理論の枠組みがそっくり使える部分でもあるだろう。しかしこうした読みは、どちらかというと理論の枠組みに作品を従属させる嫌いがある。また、映画のみがなしえることという水準をなおざりにしがちでもある(このあたりのことについては後にイーグルトンの『アフター・セオリー』グリーンバーグ著作集』について考えるさいに述べてみたい)。


⇒作品メモランダム > 2005/04/02 > 廣野由美子『批評理論入門』
 http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050403/p2


ときに。いま、日本において映画批評はどこで読めるのだろうか。書物ではなかなか読み応えのある批評・論考をみかけるけれど、旬の作品を論じるにはこまわりのきく雑誌かウェブということになる。一般に出回る映画雑誌はどうか。国内の映画雑誌は四、五誌しか目を通していないのだが、管見では「これは!」という映画批評に行き当たる確率はきわめて低い。それこそ文芸誌ユリイカ青土社)の映画特集のほうが刺激の含有量が多かったりすることもしばしばで、なぜそのようなことになっているのだろうかと思う(あ、映画秘宝はいつ読んでもおもしろいです)。


あちこちで映画批評がなされているのに自分が知らないだけか、ほんとうに映画批評というものが少ないのか。一方で、いま誰が映画批評を必要としているか? という問題もあると思う。


登川氏は「批評は製作者のためのものかそれとも鑑賞者のためのものか」という問いを立てて、この問題に考察を加えている。鑑賞者のための批評とは、作品解説のこと。製作者のための批評とは、作家の無意識を指摘することで創作にドライヴをかけるための批評ということになるだろう。


とすると、海外の作品について日本語で書かれた映画批評は、製作者に向けられたものではないことがわかる。日本の映画雑誌にどれだけクリント・イーストウッドのことを書いても、褒めても貶しても、そのままではイーストウッドには届かない。とすると、そうした海外作品を論じる文章のあて先は、国内の同業関係者と映画を観る人びと、つまり登川氏の分類でいえば鑑賞者である。


では、映画を観る立場の人びとに向かって、「この映画はよかった/わるかった」と言うことで目指されていることはなにか。ここで先の印象批評/客観批評の区別がかかわってくる。印象批評に重点を置く話者であれば、「この映画をよい/わるい、と判断する私」を読者に提示していることになる。ここでは作品のよしあしではなく、それを「私」がどう判定するのか、ということに重点がある。その「私」に関心をもたない読者には半ばどうでもよろしい部類に属することだ。


客観批評に重点を置く話者であれば、「私」ではなく作品の魅力/失点を論じ、聴き手を作品へ向かわせる/向かわせないことになる。


製作者にとって有益なのも客観批評であろう。とはいえ目下、批評が実作にいかほどの影響をあたえているのか、寡聞にして知らない。さる映画監督が批評の言葉を待ってみたけれど、ろくなものが出てこないのでもう期待しないことにした、と述べているのを読んだことがある。


この気分はいくらかわかるように思う。自分は映画ではないけれど、ヴィデオ・ゲームの製作に携わっていたことがある。ヴィデオ・ゲームでは、映画以上に批評の言葉が欠けているが、それでもときどき作り手としてありがたい批評に出会うこともある。プレイヤーがゲームについてもらす不満や指摘のほとんどは、作り手が開発の過程で一度ならず考えたことだ。考えたことがあるからといって不満足なかたちのままにすることは許されないのだが、批評という意味ではそうした意見は実はどちらでもよい。本当にありがたいのは、それについての価値判断はどちらにしても、作り手が意識していなかったこと、作り手の無意識を指摘していただくことだ。しかしそのような批評に出会うことはめったにない。


映画について文章を書く専門家たちは、このあたりのことをどう考えているのだろうか。


先に引用した対談のなかで、蓮實氏はこんな問いかけをしていた。

作家は作家に教えてしまう。では映画評論家なり理論家は何を教え、何を教わるのか。


⇒登川直樹インタヴュー「映画祭とは何か」
 http://www.informatics.tuad.ac.jp/net-expo/cinema/whats-ff/ja/interview.html