★金子務『オルデンバーグ——十七世紀科学・情報革命の演出者』 (中公叢書、中央公論新社、2005/03、amazon.co.jp)#0357*
先ごろ、『スピノザ往復書簡集』(畠中尚志訳、岩波文庫青615-7、岩波書店、1958/12、amazon.co.jp)が久々に重版された。同書は、スピノザ(Baruch de Spinoza, 1632-1677)が19名の友人・知人と交わした書簡84通が収められた書物で、彼の思想を知るうえでも貴重な資料でありまた、そうした関心をのぞいても書簡集としてたいへん興味深い一冊だ。今回の重版分が書店店頭からなくなると、つぎはいつ重版になるかわからないので、すこしでも関心のある向きはとにかく座右に置いてくことをおすすめしたい書物。
この書簡集に、ハインリッヒ・オルデンブルグなるドイツ人の名前が巻頭から頻出する。同書簡集でもスピノザとの書簡の往復が多く、哲学的な点ではすれ違っているとはいえ、スピノザから多くのことを引き出している。
また、17世紀の科学史や哲学史を渉猟しているとあちこちで彼の名前にお目にかかる。たとえばロバート・フック(Robert Hooke, 1635-1703)とアイザック・ニュートン(Isaac Newton, 1642-1727)の論争、ニュートンとライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716)の論争の顛末を論じた書物には必ずといってよいほど顔を出している。
オルデンバーグとは、一体どんな人物なのか。これまで一般の読者の手に届く範囲に、まとまった評伝や仕事の内容を伝える書物がなかっただけに科学史家・金子務(かねこ・つとむ, 1933- )氏による本書の刊行はたいへんありがたい。
ヘンリー・オルデンバーグ(Henry Oldenburg, 1619[1615]-1677)は、ブレーメン生まれのドイツ人。17世紀ヨーロッパの学術界に広く不可欠のかかわりを持ちながら、自身は一冊の著作も残していない。はじめ外交官としてロンドンに赴き、英貴族の師弟が行うヨーロッパ周遊旅行のチューターとして各地をめぐり、その過程で諸外国語を身につけ、ドイツ語、ラテン語のほかに、フランス語、イタリア語、英語、多少のオランダ語が使えたという。
彼は、1660年にロンドンで設立されたロンドン王立協会(The Royal Society of London for Improving Natural Knowledge)で「事務総長」の役職を得て、そこで世界最初の学術誌とも言われる『Philosophical Transactions: Giving some Account of the Present Undertakings, Studies, and Labours of the Ingenious in many Considerable Parts of the World』(『哲学紀要——世界の多くの主要地域における才人たちによる現行の着手、研究および成果について若干の説明を与えるもの』)(以下では簡単に『トランザクションズ』)を刊行、その継続に多大な貢献をした。
同誌は、1665年に創刊され、王立協会会員による研究成果や内外の最新情報を掲載。タイトルに「哲学」とあるが、この時代の「哲学」にはいまでいう自然科学も含まれており、実際、同誌の主要なトピックスは自然にまつわるものが多い。本書に紹介されている1665年から1683年までの主要記事の分類を見るとその様子が垣間見えるだろうか(行頭の数字は、全1014項目に占める同項目の数を示したもの)。
263 自然哲学・音響学・天文学・流体学・磁気・気象・光学・真空
041 農業・考古学・航海
031 解剖・生理学・外科・医学・薬学・化学
237 自然史・植物学・鉱物学・動物学
047 年代学・地理学・数学・機械学・航海術
395 書評
(同書、150-151ページ。ただし漢数字をアラビア数字に変更した)
ところで、Transaction とは、紀要のことだが、もちろんそれは、Trans-Action つまり、複数の人間の交流とそこから生まれる相互関係のことでもある。本書を読むと、『トランザクションズ』という雑誌の存在は、それを可能にしている人的ネットワークなくしてはありえないことがとてもよくわかる。
王立協会においてその人的ネットワークを形成するために不可欠の人物が、ほかならぬオルデンバーグなのだった。彼がどのくらいこのネットワークの形成に寄与・尽力したかということは、残された書簡集から浮かび上がってくる。私は目を通す機会にめぐまれていないが、オルデンバーグには膨大な書簡集がある(Edited and translated by A. Rupert Hall & Marie Boas Hal, The Correspondence of Henry Oldenburg, 13 volumes, 1965-1986)。金子氏によれば、同書に編集されただけでもその量は3324通。通信相手は334人。これは、インターネットが普及した現在でも、なかなかありえない数字ではないだろうか。ひょっとしたら3324通という量は随時電子メールで言葉を交換している現代人の目から見たら少なく見えるかもしれないが、冒頭で触れた『スピノザ往復書簡集』を見るとわかるように、それは書簡といっても思考の軌跡が刻印された内容の濃いもので、使う道具にかかわらず認めるのにも一定の時間と労力が要るものだ。
オルデンバーグは、各地にばらばらにいる学者たちの結節点となってネットワークをアクティヴにしつづけた。たとえば先に少し触れたニュートンとフック、ライプニッツとニュートンのやりとりのあいだに立って交通を促したり、ニュートンやマルピーギを説得して成果を論文に書かせるなど、他の公務もあろうにいつそれだけの量をこなしているのかという仕事ぶりである。
言うまでもなく、これは誰にでも務まる仕事ではない。当時の学術界の共通語であるラテン語や、各国語で文献を査読できる広い語学力もさることながら、話題ごとに人と人をつなぐ目配りのよさも必要だ(それ以上に必要なのは、このメンドウで煩瑣きわまりない仕事を継続する熱意ではないかと思う)。
人間同士の見えないつながりであるネットワークをどのようにプロデュースするのか。そしてそのトランス=アクションからどのような成果を取り出すのか。ヘンな話だが、名実ともにワールド・ワイド・ウェブによってインフラストラクチャーが整った現代においてこそ、オルデンバーグの仕事の意義はよりよく理解できるのかもしれない、と思う。この二十年ほど不活性なままなくなってゆくメーリングリストやフォーラム、不毛化する掲示板やネット上のコミュニティを見て(ときに関わって)きた私たちは、インフラストラクチャーがあるだけでは有意義で生産的なネットワークが機能しないことを痛いほどよく知っている。誰にでもオルデンバーグたりえる才覚があるというわけではないけれど、本書は17世紀の科学・学術のみならず、そうした人的ネットワークに関心がある人にも広く読まれてよい書物だと思う。
つぎはどなたか、マラン・メルセンヌ(Marin Mersenne, 1588-1648)のヴァージョンもお願いできないだろうか。
⇒The Royal Society(英語)
http://www.royalsoc.ac.uk/
イギリス王立協会
⇒The Oldenburg Page(英語)
http://web.clas.ufl.edu/users/rhatch/pages/03-Sci-Rev/SCI-REV-Home/sr-major-figures/06-OLDENBURG-PAGE.html
ロバート・A.ハッチ教授のサイト。ただし見出ししかない
⇒JSTOR > Philosophical Transactions(英語)
http://www.jstor.org/journals/03702316.html