★『ソドムの市』(2004)
『リング』『女優霊』の脚本家・高橋洋(たかはし・ひろし)氏の監督作品『ソドムの市』(2004)を観る。
合成画面であることやワイヤー、無理な設定(30代が10歳の子供を演じるなど)を隠そうともしないチープな演出、全編にちりばめられた細かくわかりづらいギャグ(要予備知識)、いきあたりばったりでご都合主義全開のストーリー、俳優というよりは関係者を動員したシロウトくさい演技(全員がそうというわけではない)、鳥肌が立ちそうなほどありきたりな音響とBGM……全編がこれ、よく言えば手作り感覚に溢れ、忌憚なく言えばアマチュア芸の域を出ない予算のない学園祭的映画である。
こう書けば酷評を重ねているようにも見えるかもしれないが、ややこしいことは、作り手側がそんなことは先刻承知でなおもこのような映画をつくっているということだ。つまり、作品の性質上、上記のように述べてもまったく酷評にはならない。
タイトルからしてパゾリーニのパクりである。主人公の俎渡海市郎(浦井崇)は——いや、あらすじの要約は公式サイトからの引用で済ませよう。
俎渡海家の子孫・市郎(浦井崇)は、破滅的人間の血を受け継いでいた。発端は18世紀。見に覚えのない調伏(呪い)の罪で領主、市兵衛に責め殺された二人の女、テレーズ(小嶺麗奈)とキャサリン(宮田亜紀)――それがまったくの濡れ衣だと判った途端、俎渡海一族に本当の呪いが襲いかかったのだ。
そして300年後、キャサリンは恐るべき因果で市郎の妹へと転生。ただひたすら兄を慕うつもりが大量殺戮をもたらし、市郎は“ソドムの市”なる極悪人へと変貌するのだった。恐るべき「両婦(ふため)地獄」の呪いを受け、全世界を混乱と恐怖に陥れようとするソドム一味。狂気の精神科医・松村博士(松本浩行)をも巻き込んでソドムが企む史上最悪の破壊計画とは?絶体絶命の危機に、やはり現代に転生したテレーズは復讐の女刑事となって、部下蛇吉(園部貴一)と共にソドムの陰謀に立ちはだかる!
(http://www.eigabancho.com/horror/sodom/story.html)
そしてこの先祖の業を背負った「ソドムの市」こと俎渡海市郎(そどみ・いちろう)は盲目の刀使い、要するに「座頭市」であり(手下がやたらとカツ丼を食べるのもここにかけてあるのだろう)、陳腐だが見過ごせない極悪犯罪を敢行するドクトル・マブゼ(ただし役者・浦井崇の風貌はオウム真理教の麻原に重ねられているのだろう)でもあるわけだ。ドクトル・マブゼとは、高橋監督が敬愛するフリッツ・ラングの映画(原作は、ノルベルト・ジャック)から召喚されたキャラクターである(実際、マブゼものの犯罪シチュエーションが本作でも引用=再現されている)。
この俎渡海がどうしたわけか、東京の人びとを洗脳して恐怖のどん底に陥れようとし(マッド・サイエンティスト、ゾンビ)、そのさいわざわざB29を造って東京大空襲という戦争の記憶を重ねながら洗脳した人びとを覚醒させる(ゾンビ化する)キーワードを大音響で流す(戦争、特撮)という目的に対してあきらかに過剰な手段(現代が舞台なら電波ジャックをはかったほうがスマートに決まっている)をとる。
他方で、俎渡海一味の悪事を追跡する女刑事・テレーズ(小嶺麗奈)はいでたちからしてゲーム(『バイオハザード』)のキャラである。彼女と部下の捜査の様子は申し訳程度に描かれるものの、もとより最後に対決することはわかりきったことゆえ、なぜかアジトを見つけて乗り込み、これまたどうしたわけか最後は切った貼ったのチャンバラ(いや、座頭市なのだから当然といえば当然?)となり、メチャクチャのうちに幕を迎える。
ちなみに本作は「ホラー番長」シリーズというカテゴリーにはいっているものの、いわゆるホラー映画が観る者に生じさせる不穏な感情・見てはならぬものを観たという感情を一切惹起させない点でカテゴリー・ミステイクを犯していると愚考する(恐い映画かと問われれば、微塵も恐くないと答えたい)。むしろ本作は犯罪者映画を、不器用仕事のブリコラージュによりギャグ映画としてリメイクしたものであって、その意味では「ワラ番長」こそが妥当なカテゴリーではないかと思う。事実、この映画を(半ば呆れながら)観ていると、意図しない笑いが自分におこるというおかしな経験をすることになる。
高橋氏はかねてより『映画の魔』(青土社)に見られるような論考を重ねている人でもあり、こういうことを考え書く人がどのような作品を実際に撮るのだろうかとの関心から観たわけだが、今回わかったことのひとつは、「作品⇒論考」と「論考⇒作品」という順序にはやはり大きなちがいがあるのだ、という当たり前といえば当たり前のことであった。つまり、映画の実作経験を通じて獲得された(どちらかといえば)帰納的に湧出した言葉と、実作経験を経ない(どちらかといえば)演繹的な批評の言葉が作品に反映する/しないありようとのあいだには、埋めがたい差がある。その差はもちろんあってしかるべき差なのだけれど、後者の試みにおいてはあらかじめ書かれた言葉が、後からやってくる批評者自身の手による実作によって完膚なきまでに裏切られるという可能性が非常に高い。
だからダメということではなく、それなのにこの陳腐な作品についてついつい(ただの文句ともちがう)なにかを言いたくなるのはなぜなのか。それは適切な喩えではないかもしれないけれど、いわゆる「クソゲー」と呼ばれる駄作ゲームへの愛好心こそがかえってゲームのなんたるかを真摯に考えさせるのと似たような、そんな効果がこの作品にあるような気がするからだ。『映画秘宝』的な映画愛といったら方々から叱られるかしらん。
誤解を招かぬよう言い添えると、世に言う「傑作」「佳作」「駄作」という判断基準を気軽に適用するならば、本作は「駄作」に分類される作品であると思う。人生の貴重な時間を無駄にしてしまうかもしれないことに寛容ではない映画ファンは観ないほうがよいだろう。どんな作品を前にしても「しょうがないなァ」「莫迦だなァ」と言いながら楽しめてしまう人にはうってつけの一本である。
DVDに収録されている特典映像には、ユーロスペースでの舞台挨拶の風景がおさめられている。そのなかで、主演の浦井崇氏が興味深いエピソードを紹介していた。映画美学校で教鞭を執る高橋氏はこんなことを常々述べていたそうだ。つまり、日本にも映画省を設立して映画を振興すべきだ。映画省とは、映画を振興するとともに、つまらない映画を撮った監督を死刑にする、そのような組織である、と。この伝で行けば映画省の判断によってまっさきに死刑になるの(以下略)
最後に、本作にはドイツ文学者の岩淵達治氏が出演していることを付記したい。
⇒作品メモランダム > 2004/09/29 > 『映画の魔』
http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20040929/p1
⇒『ソドムの市』
http://www.showko.net/~sodome/