遅読上等



★エミール・ファゲ『読書術』(石川湧訳、中公文庫、中央公論新社、2004/05、amazon.co.jp)「第一章 ゆっくり読むこと」

読むことを学ぶためには、先ず極めてゆっくりと読まねばならぬ。そして次には極めてゆっくりと読まねばならぬ。そして、単に諸君によって読まれるという名誉を持つであろう最後の書物に至るまで、極めてゆっくりと読まねばならぬだろう。書物はこれを享楽するためにも、それによって自ら学ぶためあるいはそれを批評するためと同様にゆっくり読まねばならぬ。フローベールは言った、「ああ! これら十七世紀の人々! 彼らは何とラテン語を知っていたことか! 彼らは何とゆっくり読んだことか!」


ゆっくり読む、繰り返し読む、つかえながら読む、もだえながら読む、もどりながら読む、同意しながら読む、反論しながら読む。そしてけっして読み終わるということがない。いやもちろん、形のうえでは最初から最後のページまで目をとおせば読了ということにもなるのだが、それでなにが「終わる」のか?


一冊の本を読み終わってしまうということはとてもむつかしい。


もちろん、一度だけ読んで二度と読まないかもしれない本はたくさんある(というよりもそういう本が大半だ)。それでもそれらの本を読み終わったという気がしない。


この感じは、楽器で或る曲を演奏することに似ているかもしれない。もちろんその曲をはじめからおわりまで(終わりが設定されているとして)弾けば弾き終わることはできる。しかしだからといって一度弾き終わったからといってその曲とそれを演奏する私の関係はなにも終わらない。ただおりにふれて繰り返し演奏することだけができる。


こういうこともまたゆっくり読むということのうちに含まれているのにちがいない、と独り合点する。


もっとも問題がラテン語や外国語である場合は、どうあがいても文字通りゆっくりとしか読めない、という事情も生じたりする。とはいえろくに読めもしない外国語でも、否応なく舐めるように読むため、ささっと読む日本語よか頭にこびりつくということはままあることです。ギリシア語を読んでいると、一文を日本語として読むために一時間かかるなどということはざらにあり(もちろん原因の大半は読み手の語学力にあるわけですが)、これなどは遅読のさいたるものです。