イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会のためのメモランダム #02

イェスパー・ユール『ハーフリアル』(松永伸司訳、ニューゲームズオーダー)第2章読書メモのつづきです。(承前

前回は章のタイトルでした。

■メモランダム2.第2章第1段落:ゲームを定義できるか

2-1.本文

今回から本文に入ります。まずは第1段落。

 図2.1~2.8の8つのゲームは、互いにまるでちがうものに見える。それゆえ、それらのゲームすべてに共通するものはなにもない、それらが「ゲーム」という名前で呼ばれているのは、たまたま言葉のうえで一致しているというだけの取るに足らない事柄だ――このように考えたくなるかもしれない。ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインに言わせれば、「それらすべてに共通するものはなんなのか? 『なにか共通のものがなければならない、でなければそれらをすべて「ゲーム」と呼ぶことはなかったはずだから」などと言うな。それらすべてに共通するものがなにかあるのかどうかよく見てみろ」(Wittgenstein [1953] 2001, 27)。

(第1段落、訳書37ページ/原書p. 23)

 

冒頭で言及されている「図2.1~2.8」とは、ヴィデオゲーム8作品の画面のこと。邦訳では、38-39ページに画像として引用されている。作品名を挙げると次のとおり。

・『Asteroids』(Atari, 1979)
・『バーガータイム』(データイースト、1982)
・『スーパーメトロイド』(任天堂、1994)
・『Counter-Strike』(The Counter-Strike Team, 2000)
・『The Sims2』(Maxis, 2004)
・『スーパーモンキーボール2』(アミューズメントヴィジョン、2002)
・『Grand Theft Auto III』(Rockstar Games, 2001)
・『ゼルダの伝説 風のタクト』(任天堂、2002b)

おお、懐かしい。というのはおいといて、「これら8つのゲームに共通する性質はない」と考える人もいるだろう、という次第。

「ほんとそうだよな」と思うか、「それはどうだろう、この8つのゲームは、プレイヤーが操作するという点では共通しているよね」などという具合に考えるか、読者によって意見は分かれるかもしれない。ユールは、この第2章でゲームを定義しようとしている、ということを知っていると、この第1段落は、その議論をするための前振りとも読める。つまり、「ゲーム全般を定義なんてできるの?」というそれ自体もっともな疑問を提示して、それに対して自説を述べるという段取りである。

 

2-2.ウィトゲンシュタインの引用

ここでユールが引用しているウィトゲンシュタインの言葉は、『哲学探究』(Philosophische Untersuchungen, 1953)に現れるものだ。彼は同書で「言語ゲーム(Sprachspiel; Language-game)」という概念によって言語を捉えようとして、言語をゲームに見立てている。

その際、ウィトゲンシュタインは、譬えとして使っている当のゲームについてもさまざまに考察している。ユールが引用している前後を含めて見てみよう。こんな具合だ。

たとえば、われわれが「ゲーム〔遊戯〕」と呼んでいる出来事を一度考察してみよ。盤ゲーム、カード・ゲーム、球戯、競技、等々のことである。何がこれらすべてに共通なのか。――「何かがそれらに共通でなくてはならない、そうでなければ、それらを〈ゲーム〉とはいわない」などと言ってはならない――それらすべてに何か共通なものがあるかどうか、見よ。――なぜなら、それらを注視すれば、すべてに共通なものは見ないだろうが、それらの類似性、連関性を見、しかもそれらの全系列を見るだろうからである。すでに述べたように、考えるな、見よ!――たとえば、盤ゲームをその多様な連関性ともども注視せよ。次いで、カード・ゲームへ移れ。そこでは最初の一群との対応をたくさん見出すであろうが、共通の特性がたくさん姿を消して、別の特性が現われてくる。そこで球戯へ移っていけば、共通なものが多く残るが、しかし、たくさんのものが失われていく。――これらすべてが〈娯楽〉なのかチェスミューレ〔三目並べ〕を比較せよ。あるいは、どこでも勝ち負けとか、競技者間の競争があるのかペイシェンス〔神経衰弱のような一種のカルタ遊び〕を考えてみよ。球戯には勝ち負けがあるが、子供がボールを壁に投げつけて再び受け止めている場合には、この特性は消え失せている。技倆や運がどのような役割を果たしているかを見よ。そして、チェス競技における技倆とテニス競技における技倆とが、どれほどちがっているかを見よ。また、〔ひとが手をつないで行う〕円陣ゲームを考えてみよ。ここには娯楽という要素があるが、しかし、どれほど多くの他の特性が消え失せていることか! このようにして、われわれは、この他にも実にたくさんのゲーム群を見てまわることができる。類似性が姿を現わすかと思えば、それが消え失せていくのを見るのである。


 すると、この考察の結果は、いまや次のようになる。われわれは、互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目を見、大まかな類似性やこまかな類似性を見ているのである、と。

(第66節、邦訳69-70ページ/原書S. 277)

 

ご覧のように、ここではゲームそのものについて、ゲームの定義が検討されている。

訳文中、「ゲーム〔遊戯〕」とあるのはSpieleが原語。同じく「盤ゲーム、カード・ゲーム、球戯、競技、等々」は、”Brettspiele, Kartenspiele, Ballspiel, Kampfspiele”と、いずれもSpielである。(原文はLudvig Wittgenstein Werkausgabe Band 1, shurkamp taschenbuch wissenschaft501, 1984から。以下同様)

引用の際、ゲームの名前と比較に用いられる性質については色をつけてみた。こうした多様なゲームの例を並べながら、ウィトゲンシュタインは、これらに共通の性質があるかどうか見てみろという。

当然のことながら、彼がやってみせているように、ボードゲームとカードゲーム、あれとこれ、という具合に比べてゆくと、そのつど共通する性質を見いだせる。しかし、全部に共通する要素なんてあるだろうか(いやいや、ない)、というわけだ。

ゲーム全般に通じる性質はない。ただし、あれとこれ、それとあれという具合に、いろいろなゲームを比べてみると、あちこちに「類似性」が見つかるだろうと言っている。いま引用した次の節で、ウィトゲンシュタインはそうした類似性を「家族的類似性(Familienähnlichkeiten)」と呼んでいる。

2-3.比較対象はどう選ばれ、どう比較されるのか

ここで面白いのは、壁にボールを投げてキャッチする例。ウィトゲンシュタインは、これをゲームの一例として扱っている。他方で、見方によっては、これはゲームではないとも考えられる。例えば、21世紀の日本でゲーム開発を生業とする私から見ると、壁にボールを投げてキャッチするだけでは、ゲームとは感じられない。

といっても、私の見方が正しくて、ウィトゲンシュタインが間違っているという話ではない。時代や文化や言語によって、おそらく人びとが「これはゲームだ」と感じるもの、見なすものも違うのだろう。ウィトゲンシュタインは、彼が生きた時代と場所でおよそゲーム(というかSpiel)と見なされているものを材料にして、この議論を組み立てている。

ある時代のある文化(これが曖昧なら、ある人間の集団でもよい)において「これはゲームだ」と見なされている営みがある。実際にはある「文化」が特定の営みを「これはゲームだ」と見なすわけではない。そう見なすのはあくまでも個々の人間である。

例えば、同じ時代の同じ地域に住み、同じ言語を母語とする人たちがいるとして、彼らが全員、人間の営みのなかでどれがゲームであり、ゲームではないのかについて、完全に意見が一致するとは限らない。人によって違う判断をする場合もあるだろう。例えば、学校でゲームのつくり方などを教えていると、ときどき学生から「先生、スポーツはゲームですか」と質問されることがある。あるいは人によっては、ゲームとはなんなのかが分からないという場合もある。

f:id:yakumoizuru:20170630001129j:plain

図:このくだりを読みながらノートに描いた図。だからなにというわけではないけれど

 

何を言いたいのか。ウィトゲンシュタインがここで述べていることを、次のようにまとめてみることができる。

a) ある人がゲームだと見なしている営みの例を集める。(対象の取捨選択)
b) それらの営みに共通する性質はあるかどうかを比較検討する。(対象の比較)
c) aで集めたゲーム全体に共通する性質はない。(ゲームを一般的に定義できない)
d) さまざまな類似性はある。(一般的定義の代わりにできること)

cの判断はaで蒐集したサンプルによる。aはこの操作を行う人によって異なる可能性がある。なぜなら、人はあらゆることを経験できず、自分がその時点まで経験したこと、見知ったことだけを材料にできるからだ。

また、それとは別にcで各サンプルに共通する性質とは、誰がどのように見出したり規定したりするのか。素朴に考えれば、人が普通「ゲームとはこういうものだ」と考えている具体例に基づいて、「ゲームなら勝ち負けがあるだろう」という具合に、ゲームに備わっているであろう性質をとりあげる。

では、こう考えたとき、cの判断の妥当性はどのように評価できるのか。ウィトゲンシュタインがここで述べている「すべてに共通なものは見ない」という判断の妥当性は、どのように確認できるだろうか。

――と、ごちゃごちゃ述べたけれども、歴史的経緯や習慣として「ゲームとはこういうものだ」という考えから出発して、ゲームと見なされているものを集め、そこに共通性があるか否かを確認して、「ない」と判断する。その妥当性やいかに、という次第。

これは物事を一般的に定義しようとする際についてまわる問題である。自然科学で、個別の現象から、それらをまとめて説明する一般的記述を抽出(推論)する場合と似た形のことがらだと思う。ただし、性質についての判断は、個々の人間がおのおのの経験や知識にもとづいて判断することでもあるので、その点で自然科学とは違うわけだけれども。

2-4.原文を見ながらもう一度読む

ユールの文章に戻ろう。

第2章の第1段落を、原文も見ながら私なりにパラフレーズするとこうなる。

a) ユールは8つのヴィデオゲームを選んで、ゲーム画面を引用・提示した。
"The eight games in figures 2.1-2.8"

b) これら8つのゲームはそれぞれ全く違うゲームに見える。
"[These games] look to be quite different:"

c) そこで次のように結論づけたくなる人がいるかもしれない。
"One might to tempted to conclude"

d) これら8つのゲームには共通するものはない。
"that they have nothing in common"

e) にもかかわらず「ゲーム」と同じ名前で呼ばれるのは、たまさか言葉遣いが一致しただけだ(という具合に結論づけたくなる人がいるかもしれない)。
"and that thier sharing the term "games" is insignificant linguistic coincidence."

f) ウィトゲンシュタインの引用:これら全てに何か共通しているだろうか。「なにかしら共通しているはずだ。そうでなければ、これらを全部「ゲーム」と呼ばないだろう」などと言ってはならない。そうではなく、それら全てに何か共通しているかどうかをよく見よ。
"In the words of Ludwig Wittgenstein, "What is common to them all?--Don't say: 'There *must* be something common, or else they would not be all called "games"'--but *look* and *see* whether there is anything common to all" ([1953] 2001, 27)."

 ――という次第。

 

要約するとこうなろうか。

1) ユールが選んで提示した8つのゲームには共通する性質があるか。
2) 共通性はないと考えたくなるかもしれない。
3) 例えばウィトゲンシュタインは、ゲームと呼ばれるものには共通性がないと考えた。

(この読書メモの目的の一つは、各段落を要約することでもある。この要約を後にまとめることで、読書会で配布するレジュメの骨格ができる、という心算)

 

特に意味不明の点はない。

素朴な疑問としては、次のことが気になった。

・ユールはどのように8つのヴィデオゲームを選んだのか。

・人は複数のものごとについて、どのように「共通性」を見出すのか。

 

ウィトゲンシュタインの引用は、「それらすべてに共通するものがなにかあるのかどうかよく見てみろ(look and see)」という具合に、この段落の導入にもなっている。次の段落以降で、「よく見てみる」ということであろう。


■関連リンク

⇒日曜社会学 > 「イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会」
 http://socio-logic.jp/events/201706_Half-Real/

 

■関連文献

 

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

 
Half-Real: Video Games between Real Rules and Fictional Worlds (MIT Press) (English Edition)

Half-Real: Video Games between Real Rules and Fictional Worlds (MIT Press) (English Edition)

 
ウィトゲンシュタイン全集 8 哲学探究

ウィトゲンシュタイン全集 8 哲学探究

 
哲学探究

哲学探究

 
Tractatus logico-philosophicus. Tagebuecher 1914 - 1916. Philosophische Untersuchungen

Tractatus logico-philosophicus. Tagebuecher 1914 - 1916. Philosophische Untersuchungen