翻訳と謙虚さと


★シンポジウム「外国文学は『役に立つ』のか?」(『新潮』2004年01月号)


 「ブンガク畑でつかまえて――外国文学の楽しみ」
 日時:2003年10月17日
 場所:東京大学文学部
 パネリスト=池内紀柴田元幸中村和恵沼野充義堀江敏幸

「外国語とのつきあいは、読むにも書くにも翻訳するにも、日本語を使うときに噴出する自我を抑える働きがある。他人の才能にたいして、とても謙虚になれる」(堀江敏幸氏の発言より)


外国語は、それが外・国語であるかぎりにおいて、その言語に接するさいには注意深く耳を傾け、その声をききとる姿勢をとることになる。いくら耳をすませても(目をこらしても)、完全にはわかりがたい他者の言葉にひたすら耳を傾け、理解しようと努めることをしばらくつづけていると、(それが何語であったとしても)その姿勢はそのまま日本語という言葉に対しても維持されるようになる。当然のことながら日本語もまた他者の言葉であるから。複数の言語を往復してみて身に染みることを、堀江氏の言葉はうまく言い当てていると思う。ことに、もはや話者も筆者もいなくなった古典ギリシア語の、投壜通信のようにして私の手元にとどいた作品を前にしてはなおのこと。

「文学作品は、ある一つの言語の土壌で一回限り起こった事件のようなものでしょう。それを他の言語の土壌に移し変えて、そこでもう一度、同じような事件を仕立て上げようというのだから、翻訳というのはおそろしく厄介な仕事です」(沼野充義氏の発言より)