矢継ぎばやとはまさにこのこと


先だって、たてつづけにセクストゥス・エンペイリコス、クセノポンと刊行された「西洋古典叢書」だが、早くもデモステネスの『弁論集3』が配本とのこと。


次回配本以降も、毎月の刊行が予定されている。まさに月刊古典叢書。というか、この二月はこれで三冊目なのですが。


与太話はともかく。先日、プラトンの翻訳・研究で名高い藤澤令夫が鬼籍に入った。氏は「西洋古典叢書」の編集委員も務めておられた。その刊行にあたって書かれた「編集の辞」をいまいちどかみしめておきたい。

日本は19世紀の半ばから、長年の鎖国を解いて、西洋文明を積極的に受け入れはじめた。受容の姿勢は、総じて「和魂洋才」、学問については「実学」の思想、掛声としては「富国強兵」であった。すなわち、日本古来の「魂」を恃みとして、西洋の学問と文明からは、国力増強に役立つ実益的なその先端部分を集中的に輸入する、ということである。影響は後のちまで尾を引いた。学問分野では当然、理工系が法科経済と共に重んじられ、文学部系の洋学は“虚学”として冷遇されることになる。そしてその虚学のうちでも、実に哲学においてさえ、最先端至上主義が幅をきかせてきた。だがいうまでもなく、西洋の学問と文明はただ「才」としてあるのではなく、その長い伝統を培ってきた母体(マトリックス)があり、「魂」がある。その具体的な姿がギリシア・ローマの古典であって、わが国において和漢の古典籍がそうであったように、西洋の伝統においてこれらの古典は、知と教養の源泉でありつづけたのである。けれども西洋文明受容の基本姿勢が上述のごとくあった以上、これと取り組むだけの本格的な力量は、わが国では容易に育まれず、一部は邦訳されたが、膨大にして多種多様なギリシア・ローマの古典の大部分は、まだ手つかずのまま残されている。今やしかし、こうした点の反省の上に立つ「日本西洋古典学会」の創設からも半世紀近く経ち、大学におけるこの道の教育と研究の進展と相まって、哲・史・文にわたる西洋古典の各領域に習熟した研究者層の厚さ広さは、昔日の比ではない。ギリシア語とラテン語で書かれたその原典の全部を、正確で平明な日本語に翻訳し公刊するという大事業に着手する機が、ようやく熟したといえるだろう。幕末・明治から150年、先に述べた「西洋」摂取の戦略によって日本は急速に近代化を達成し、対戦で叩かれた後は、「強兵」を諦めてもっぱら「富国」への道を邁進してきた。今日、かつての「和魂」は消散したかに見え、他方「洋学」としての科学技術文明は、その恩恵の反面、さまざまの深刻な負の波及効果を顕在化させている。この状況の中でいまこそわれわれは、ここに初めて西洋の知と教養の基底の巨大な全容を読者に提供するべく、蓄積された学会の総力を傾けて、息の長い努力をつづけていくつもりである。


そう、そういう射程の仕事なのである。