失点のみを考えているスポーツ選手は絶対に伸びません。そのことのみを語るスポーツ批評にも、運動を誘発する言葉が欠けています。問題は、潜在的な資質にとどまっている「美しさ」を、どう顕在化するかにかかっています。選手は、どんな試合でもピッチに漂ってしまう「醜さ」を克服し、いまだ眠っている「美しさ」をどう目覚めさせるかを、運動を通してさぐりあてねばならない。
蓮實重彦『スポーツ批評宣言――あるいは運動の擁護』(青土社、2004/03)より
流れ過ぎゆく一日のなかで、自分ははたして「醜さ」を排し、「美しさ」の顕在化に加担しえたかということを、人々はあまり考えなくなってしまっている。これは、人々が美学的な趣味の判断を忘れたからではなく、ごく端的に「生きる」ことを忘れ始めていることからきています。そのとき、生はその軌跡にあっさり還元され、運動はいたるところで放擲される。理由は、すでに指摘したように、人類は「運動」が好きではないからです。
これは政治的な、あるいは社会的な運動についても同じです。いまの日本では、さまざまな分野での運動があまり高まりを見せていませんが、それは「醜さ」がいたるところでその動きを奪っているからにほかなりません。この「醜さ」について、われわれはもう少し真剣に考えなければなりません。