★大嶋仁精神分析の都――ブエノス・アイレス幻視』(Fukutake Books、福武書店、1990/10; 新訂増補版、作品社、1996/04、amazon.co.jp


ブエノス・アイレスは精神分析の都だ。著者が言うには、「フロイト全集の廉価版が町の新聞スタンドで売られ、ラカンの名前が中流の主婦の口から聞かれる」って、これじゃまるきり「モンティ・パイソン」ですがな(井戸端会議でハイデガーの死の概念について口角泡を飛ばす主婦たち)。


しかしなぜブエノス・アイレスで精神分析なのか? 大嶋氏の見立てでは、伝統がない社会で移民たちが新世界にもなじめず、さりとて旧世界そのままでもない、宙ぶらりんの状態がそれを要請するらしい。つまり、人々はそんな不安定な状態のなかで、精神分析によって自己構築を行い、心的安定を得るのだという。


というか、ある意味ものすごいプラグマティックですよね。


そんなブエノス・アイレスで、アンチ精神分析の動きが二つある。ひとつはゲシュタルト派で、彼らは「精神分析は身体を忘れている」と批判する。もうひとつはシステミックス派で、彼らは「精神分析は過去を気にしすぎる。個人のみならず、その個人をとりまくたとえば家族をふくめて治療を実践しなければ」(大意)と批判する。


とりわけ後者はベイトソンマトゥラーナに依拠しているというから、はからずもここ数日いやになるほど読んでいる斉藤環さんの「OS/PS」の見立て――人間の顔(主体)をシステム論と精神分析の二側面から読み解く――を思い出す。


そこにゲシュタルト派が批判するところの「身体」を加えたら、これは心/脳/身体というおなじみの三題噺になるんではないか。


それにしても変な(おもしろい)本だ。


なぜかアルモドバルの『トーク・トゥー・ハー』を思い出す。


ブエノス・アイレス→ウォン・カーワイ『ブエノス・アイレス』→(引用されていた歌)「ククルク・パロマー」→(その歌をやはり使っていた)『トーク・トゥー・ハー』という連想か。orz