鷲田清一『教養としての「死」を考える』(新書y108、洋泉社、2004/04、amazon.co.jp


養老さんのひそみにならって(?)ではなかろうけれど、鷲田さんにしゃべらせたことを編集者が文章にまとめるというスタイルで書かれた一冊。それだけに内容はやや希薄な感じが否めないものの、提出されている論点はそこからものを考える種として有益であった。


以下、印象にのこった議論をアトランダムにメモ。


成熟とは、適切な第三者になれることではないか。適切な第三者とは、人と人のあいだに、赤の他人ではなく関心を持った他人として立てること。


「私が生きていることの意味は、私が他人のなかに意味ある場所を占めているかどうかにかかっている」(R.D.レイン


自分が本当に体験できる死は、自分を宛先としてくれていた多者がいなくなることによって、自分のなかに喪失感の空白ができ、自分の一部がつぶれたり壊れたりしてしまうということではないか。cf.芹沢俊介『経験としての死』(雲母書房


脳死問題や胚利用において)科学者が生命倫理という場合、倫理の名のもとに規範を策定することによって、実質的には殺すことにほかならない行為(臓器移植)を免責することではないか。


「死は生を無意味にすることによって生に意味を与えます。市は生に意味を与える無意味なのです」(ジャンケレヴィッチ)


人間にとって本質的な死とは、実をいえば二人称の死ではないか。一人称の死という経験を超えた概念は、二人称の死(私を意味づけてくれる他者の不在)を自分のなかにおきかえてみたものなのではないか。


鷲田さんとともにジャンケレヴィッチの人称による死の分類(これはたしか養老さんもどこかで同じ区分を使っていた)を再検討してみる必要がある。


⇒哲学の劇場 > 作家の肖像 > 鷲田清一
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