小谷野敦『評論家入門――清貧でもいいから物書きになりたい人に』平凡社新書247、平凡社、2004/11、amazon.co.jp

ものを書くという仕事――まえがきにかえて
第一章 評論とは何か――「学問」との違い
第二章 基本的な事柄とよくある過ち
第三章 評論をどう読むか
第四章 『日本近代文学の起源』を読む
第五章 評論家修行
第六章 論争の愉しみと苦しみ
第七章 エッセイストのすすめ、清貧のすすめ
あとがき



ヘルマン・ブロッホ『夢遊の人々(下)』(菊盛英夫訳、ちくま文庫ふ32-2、筑摩書房、2004/11、amazon.co.jp
 Hermann Broch, Die Schlafwandler (1931-1932)


1971年1月に中央公論社から刊行された訳書の文庫化。下巻には第三部が収録されている。懇切な訳者解説のほか、ブロッホの「長編小説の世界像」という講演(入野田眞右訳)と年譜が併録されている。『ウェルギリウスの死』や『誘惑者』も復刊してくれないだろうか。


★デニス・シェファー+ラリー・サルヴァート『マスターズオブライト――アメリカン・シネマの撮影監督たち』(高間賢治+宮本高晴訳、フィルムアート社、1988/03、amazon.co.jp
 Dennis Schaefer + Larry Salvato, Masters of Lights: conversations with contemporary cinematographers (University of California Press, 1984)


先日読んだ西本正『香港への道』(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20041104)に触発されて、映画のキャメラマンの言葉に触れてみたいと思って手にした一冊。


(当然のことながら)監督とは異なる視点から概してクールに語るキャメラマンの映画議論はすこぶる興味深い。(ふたたび当然のことながら)なにしろ彼らは監督がこうしたいと構想した画を実際にキャメラという機械装置を繰って撮影する立場。技術に立脚しながら理想(idea)をどうやって実現するかに腐心するさまが頼もしい。私が携わっていたゲーム製作で言うと、企画者(ゲーム・デザイナー)が構想(想像)するゲームを実際にゲーム機のうえで動くものにつくりあげるプログラマーに相当する仕事だ――とはまた雑駁な喩えで恐縮だけれど、プログラムに書けなければどんなに好いアイデアもゲームにならないのと同様のことが映画にもあるはずで、その最たるものがキャメラにまつわることなのではないだろうか。


さて、今日手にした本書は撮影監督たちへのインタヴュー集。インタヴューを受ける撮影監督は、ネストール・アルメンドロス、ジョン・アロンゾ、ジョン・ベイリー、マイケル・チャップマン、ウイリアム・フレイカー、ラズロ・コヴァックス、オーウェン・ロイズマン、ヴィットリオ・ストラーロハスケル・ウェクスラー、ゴードン・ウイリス、ヴィルモス・スィグモンド


巻頭におかれた「まえがき」はこんな風にはじまる。

この本の目的は、劇場用映画撮影者の活動領域を彼ら自身の言葉から掘り起こしてみようとするものである。本文を読んでいただければわかるように、撮影者の一日は過酷である。その都度キャメラ操作を指示し、日が暮れれば勤務終了というわけではないのだ。映画の仕事に入っている時、創造的な撮影者は一日二十四時間、食事も呼吸も鼓動も撮影がらみなのである。