★小俣和一郎『精神病院の起源』太田出版、1998/07、amazon.co.jp)#0045


専門の精神医学界において、精神医学の歴史がどのように教えられているのか。門外漢の私にはわからないのだけれど、書店や図書館の精神医学書コーナーで手にとることができる関連文献をざっとながめわたした印象では、近代西欧発祥の当該学問に拠るところがおおきい、というかほとんどそれによって占められているように感じられる。


自身、臨床医でもある本書の著者・小俣和一郎氏は、本書の「あとがき」においてつぎのように述べている。

旧来からの精神医学史は、学問それ自体の直接的な発達・発展のみの歴史にあまりにも目をうばわれすぎて、精神医療・医学をとりまく豊かな「横のつながり」にほとんど注意を払うことがなかった。


オールド・ヒストリーとしての精神医学史が、どれも一般の歴史学との連携を欠いたまま精神病院の歴史をその軸にすえることができなかったのは、単なる史料の欠如という理由からばかりではないだろう。そこには、西欧由来の現代の教壇的精神医学に対する一種の「権威づけ」の目的からのみ歴史が語られてきたという、オールド・ヒストリーに共通する特徴的な通弊が顔をのぞかせている。このような一直線の発達史観を排して、それぞれの時代ごとの横のつながりに目を配りながら歴史を叙述するためには、従来から語りの中心にすえられてきた教壇的学問史という軸をいったんは取り払って、それ以外の(むしろそれによって隠蔽されてきた)事象に焦点をあてる必要がある。そこにおのずと新しい歴史、すなわちニュー・ヒストリーが姿を現すことになる。

(同書、pp.277-278)


本書はこのような動機から書かれた日本精神医学史の書物で、精神病院あるいは精神病院の先駆的な形態を、歴史(史料)に探った労作。精神病院的施設の歴史をたどる、ということは同時に、そうした施設でどのような「精神病」(的症状)が治療の対象とされていたかも俎上にのぼせられるわけで、その変遷もまた本書の興味深い点だ。


著者によると、目下のところ(とは、同書が書かれた1998年の時点で)精神病院に類する施設について史料から再構成できるのは、せいぜい15世紀以降のことだという。史料が不十分であることを前提としつつ、本書は平安期以降の精神病院的施設を探索している。主にとりあつかわれるのは以下のもの。


1)密教寺院における水治療
2)浄土真宗寺院における漢方治療
3)日蓮宗における読経
4)江戸期の精神病院的施設


この流れを追ってゆくと、宗教的な施設からはじまった精神病院/精神病治療が徐々に脱宗教化してゆくことが見て取れる。素人考えでは、現代における精神病治療の方法は近代西欧医学に端を発しているように思えるけれど、本書を読むと、近代西欧医学の輸入以前にも現代の方法につながる治療観がすでにあったことがわかる。といっても、本書は「わたしたちが西欧から輸入してもてはやしているものは、じつはすでに昔から東邦にあった」という愛国主義者がよろこびそうな議論をしているわけではない。単に、近代西欧医学輸入前の時期をあつかっているために、話がもっぱら日本に限定されている次第。


本書の続編『精神病院の起源――近代篇』太田出版、2000/07、amazon.co.jp)では、明治期や諸外国を扱っており、おそらくそこではドイツを中心とした西欧医学の流入の影響も検討されてゆくものと思われる(未読なのでこれは推測)。

世阿弥が描いた狂気は、強い感情的体験に起因する感情因性の、つまりは心因性(反応性)精神病である。

(同書、p.130)



という指摘に触れて、あわてて書棚から風姿花伝岩波文庫青1-1、岩波書店amazon.co.jp)をひっぱりだす。


著者・小俣和一郎(おまた・わいちろう, 1950- )には、『精神医学とナチズム――裁かれるユングハイデガー講談社現代新書、1997/07、現在品切)ほかの著作もある。以下に簡易書誌を作成しておきたい。